可部高松城下で熊谷氏を攻める
武田光和と横川合戦
 

承久の乱 (承久2年(1221)) の功績で武田氏は安芸国の守護として祇園・山本 (広島市安佐南区) へ、また、熊谷氏は地頭として可部三入 (広島市安佐北区) が与えられその後、関東から拠点を移した。
 以来、熊谷氏は安芸武田氏の配下として最も頼りとする国人領主であった。
特に、武田元繁 と 毛利氏 の間で行われた 永正14年(1517) の 「有田合戦 」 では当主 熊谷元直 は武田方として奮戦したが戦死している。
 しかし、元直の嫡男 信直 は武田氏と共通の敵であるはずの毛利氏に寝返った。
その背景には、 『毛利元就 が大内氏より恩賞として与えられた土地を熊谷氏の毛利服属を条件に譲る密約をするなどの懐工作や、“元繁 の嫡男 光和 の側室となった 元直 の子女が高松城へ逃げ帰った時、復縁を断り他家(飯室の恵下城主 三須房清)に嫁がせた』 ことなどがあって、遂に 大永2年(1522) に毛利氏に寝返った。
 これに怒った 光和 は 天文2年(1533) 熊谷氏の籠る高松城 (広島市安佐北区可部町) を攻めた。
これが 「横川の合戦」 である。

その戦況は [陰徳太平記] に記載がある。 要約すると次のとおりである。

 『天文2年(1533) 8月10日 武田光和 は金山城(銀山城)を出て1千騎を二手に分けて,三入(可部) 高松城 に押し寄せる. 大手の横川表 (可部9丁目付近) に光和の妹婿の伴 (安佐南区沼田町伴) 城主伴五郎繁清 を総大将として国人 八木城主 香川左衛門尉光景、己斐城主 斐豊後守直之、飯田越中守義武、山田左衛門太夫重任、遠藤左京亮利之,福島左衛門義茂等、温科民部左衛門家行,久村玄審充繁安、武田譜代の粟屋兵庫助繁宗、小河内大膳亮、同左京亮、板垣、青木,一条、以下800余騎が三入横川表に押し寄せる。
 搦め手は 武田光和 自らが大将として横川表に兵を集中して、無勢となっている高松城は攻め易しと思い、品川左京亮、内藤弥四郎 を先に立てて、兵200人ばかりが馬から降りて、城へ攻め上がる。
 一方、熊谷信直 も敵が来ると予想し、あらかじめ横川表に三重の柵を巡らして枝折戸(しおりと)を構え、「作戦をわざと柵より外に進み出て、敵をおびき寄せては退き、敵は勝ちと思い柵を乗り越えて来るところを打ち取るべし」 と下知する。 信直 の弟熊谷平蔵直続、末田勘解左衛門直忠、弟新右衛門直仲、同民部左衛門忠共、同縫殿助、岸添大隅守清員、水落掃部之助、桐原、波多野 等300余騎にて横川表で待ちかまえる。
 武田勢は南原川を越え足軽を矢面にたてて矢を射かければ、熊谷勢も射手を出して矢を放つ。 武田勢有利とみて、熊谷勢は退却した。 武田軍奉行 粟屋兵庫助繁宗 は先に立って“団(うちわ)„を上げて 「敵は引いているぞ!進めや者ども!一人残らず打ち取れ」と下知すれば、我先に柵を乗り越えて枝折戸を押し破り、武田勢の先陣三百余騎は柵の中に討ち入り、後陣は柵の傍まで迫る。
 熊谷平蔵直続 はこれをみて、 「敵は思うツボにはまりましたぞ! 、 折り返せや皆の者」 と呼ばわり一番槍をいれれば、末田,岸添、桐原、水落 等300余騎は取って返し切ってかかれば、武田勢たちまち突きたてられて、半町ばかり退却したところ、香川左衛門尉、飯田越中守、山県筑後守、己斐豊後守、遠藤左京、山田 の一族、等踏み止まって、真っ先に進撃してきた者67人を突き倒す。
 更に、後陣に控えていた、伴五郎繁清は 「味方を討たすな」 と応援に駆け寄れば、熊谷勢 心は勇んでも無勢なれば押し立てられ、横川の山際まで退却する。 すでに危うくなったとき、平蔵直続 は 「一足も引かじ」 と、踏み止まって戦う。 末田勘解由 等は一番に引き返し槍を揃えて突き進み戦う、武田勢は三度の勝ちにのり、粟屋兵庫助繁宗 は馬上で “指麾(ざい)„ を振って先頭に進み出て下知をする。 直続 はこれを見て 「いま真っ先に立って下知するは、今日の軍奉行なり、多数を打ち取るより、軍奉行一人を射ることとせよ、この大将を射とらば諸勢は退却するー、あれを射よ」 と下知すれば、熊谷勢周囲からの一斉に射かける。 矢は粟屋兵庫助 の喉に当たり馬より真っ逆さまに落ちて討ち死する。 直続 は 「今日の合戦 味方の勝ちである 進めや者ども」 と勢いにのる。
 武田勢は軍奉行を討たれて浮足たち、武田総大将 伴五郎繁清 も三か所の矢疵を受けたので一度にドット退却した。
香川左衛門尉光影 も家臣の 三宅次郎兵衛 が身をもって守ってくれたおかげで、虎口を脱するほどであったという。
 しかし、武田家に類無き勇士と言われた、重臣 小河内左京亮(さきょう きよう)、弟同修理(しゅうり)、婿子 同大膳亮(だいぜん きよう) の一族7人は1か所に集まり 「今日を除いていつの為に命を惜しまんや」 と一文字に突いて出て獅子奮迅の戦いをするが討ち死にする。
 一方、大手の合戦の状況が判らぬまま、武田光和 は200余騎を率いて高松城の搦手上原方面より攻め上がる。 矢を射込まれながらも城内は僅か16騎であったので 容易に城中に突入する事が出来たが、熊谷の手勢僅かな残兵で抵抗を繰り返す所、直続は200余騎を横川表に置いて、直続 みずから50余騎を率いて高松城に引き返し、光和 の後方に迂回して攻撃する。 直続 が横川表で 粟屋、小河内 等を打ち果たしたことを告げると、光和は三間半の大槍を振り回して 「当城を枕に打死するしかあるまい」 と、なおも進まんとするを、品川左京亮一 「ここは一旦退却し後日、大軍を仕立てて再度戦うべし」 と押しとどめられ、佐東郡の金山城(銀山城)に引き返す。
 その後、武田光和 は1700余を結成し再度の高松城攻めを計画したが、毛利、平賀 の援軍が来ると家臣からの忠告受け決戦を延引したが、翌 天文3年(1534) 33才、銀山城で病死する。』
                                                     
 参考文献 [陰徳太平記]               
                                                                        [安芸三入庄 熊谷氏] 栗田儀一  
 
             ( 注 :武田光和の死 は 天文9年(1540) 33才で没が 定説 )

                 < 横川合戦 古戦場図 >                          
                                                           2014/8
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