武田氏一の重臣
伴 氏
 
 伴氏は武田氏の親戚筋にあたり、武田氏の後ろ盾もあったのではないかと考えられ、現在の広島市安佐南区沼田町伴に広く勢力を持った。
 同氏に係わる古文書はあまり見られないが、南北朝・室町の初期は武田や武田伴を名乗っていたようである。
もともと、仙村(広島市安佐南区沼田町)は厳島の神領であったが、応永4年(1397)に仙村の大塚、久知(久地)を 「武田伴遠江五郎」 が押妨しており、この時、幕府が押妨を止めるよう命じている資料が存在する。 その後、貞治年間(1362〜1368) には仙村の内の7ケ村を拝領し、同地の”安堵状”もあるなどから、古来よりこの地を拠点としたことが伺い知られる。
そして、そこを拠点に、勢力を拡大して、山県郡安芸太田町の「穴」 のあたりまでを所領したようである。
 以後、血縁関係もあり、伴氏は武田氏の最も信頼される重臣となるが、特に活躍したことが知られるのは、鎌倉戦国時代以降、各地の騒動や合戦に多く出陣している。
たとえば、武田元繁と毛利元就が激突した 「有田合戦」 では [伴民部少輔好清入道西阿] や嫡男 [伴五郎繁清] が参陣し活躍した。
 有田合戦で戦死した [武田元繁] の後継 [武田光和] の代になって、熊谷氏が武田を離れ毛利氏に服属したことに立腹し、高松山城下(広島市安佐北区可部)で熊谷氏を攻撃した 「横川の合戦」 では、光和が搦手を攻め、繁清は ”大手攻め” の大将として参陣している。
 また、[伴五郎繁清] は [武田光和] の妹婿とも言われ、嫡子のいない光和は生前、繁清の子刑部少輔(信重)を後継者として決めていたようであるが、香川氏や己斐氏の反対で実現せず、若狭の武田信実が養子に迎えられている。
そして、養子を迎えた翌年の天文10年(1541)銀山城が落城した時、武田方の残兵たちも最後に伴城に集結、籠城して毛利軍と戦ったが、ついに、武田氏ともども敗北してしまった。
 その 「伴城」 は武田山の西、現在の広島市安佐南区沼田町の 「伴」 に3ケ所( 伴城、伴北城、伴東城、)あったが、その城跡(山林)は住宅団地などに造成され今は完全に消滅している。
 なお、「伴東城」 のあった山林が昭和62年(1987) に団地化されるのを機に広島市教育委員会が発掘調査をしている。 その時発掘された遺構などの一部写真を以下に示す。
 また、伴地区の3ケ所に城があった事に由来し名付けられたと伝わる 「三城田」地区には巨大な5輪塔墓石が多数現存しているが、これらは明らかに、伴氏や重臣たちのものであると考えられる。
 また、伴氏の菩提寺であった沼田町伴瀬戸の 「長福寺跡」 にも歴代の伴氏の墓石が多数存在する。その中に一際大きな墓石が 「伴五郎繁清」 のものと言われている。

 ( 写真をクリックすると拡大写真が見れます )
 伴城跡遠景 伴城跡の石垣-1
伴城跡を上空から 伴城跡の石垣-2 伴城跡の発掘遺品(古銭・釘など一部)
           写真は(財)広島市未来都市創造財団文化学部文化財課の認可(2011/12/12)を得て 「伴東城跡発掘調査報告書」 から引用




   参考:☆
安芸武田氏支配地域の主要山城図(主に、現在の ”安佐南区” ”安佐北区” ) を見る(ここをクリック

                    参考文献:「沼田町史」 
                                          「広島県史(中世)」        
                                                 
           
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