安芸武田氏最大の家臣
熊谷氏 
 
 熊谷氏は桓武平氏の一族で武蔵国大里郡熊谷(埼玉県行田市)に住み“熊谷”と称していた。
当初平家に組みしていたが、後に、源頼朝の御家人にとなった。
一門の中で、源義経に従って平家追討の「一ノ谷の戦」で功績をあげた「熊谷直実(なおざね)」がよく知られている。 「安芸の熊谷氏」はその流れを組む一族である。
 系図に示す「熊谷直時」は武田氏、香川氏や毛利氏等と同様に「承久の乱」(1221)で戦功があり三入庄(広島市安佐北区可部三入)の地頭職が与えられた。
直時が最初に安芸国に移り(1222)、拠点としたのは「伊勢が坪城」であった。 後(1348)、直経は勢力の拡大とともに、少し南に位置する三入/下町屋に居館を構え、高松山に城(「高松城」)を築いて拠点を移した。
 熊谷氏は三入に補任して以来、安芸国守護武田氏に服属(家臣/連合軍)し、一貫して武田氏の最有力武将とし行動している。中央では南北朝の争いに武田氏に従い足利尊氏に加担し幾多の戦いに参陣しているし、近隣の騒動においてもそうであった。中でも、安芸武田氏と毛利氏とが戦った「有田合戦」では熊谷元直が武田元繁の先陣を務め奮戦したが、元就軍の奇襲に合い戦死している。
 元直の嫡男信直の代になると熊谷氏、武田氏の共通の敵であるはずの毛利氏から大内氏より恩賞として与えられた土地を譲る密約をするなどの懐柔工作があり、また、元繁の嫡男光和の側室となった元直の子女が高松城へ逃げ帰った時、復縁を断り他家(飯室の恵下城主三須房清)に嫁がせたことなどもあって、両家は断絶し大永2年(1522)頃ついに毛利氏に服属することとなった。
 これを怒った光和は天文2年(1533)熊谷を攻めた、「横川の合戦」である。この戦いで武田軍は熊谷氏の強固な防戦や反撃で銀山城に敗走を余儀なくされた。その後、武田氏は勢力挽回に他方でも合戦に及ぶが光和は天文9年(1540)戦いの中、病没した。養子に武田信実を迎えたが毛利氏や熊谷氏などの連合軍に攻められ、武田氏はついに天文10年(1541)滅亡したのである。
 一方、熊谷氏は毛利方の重臣としてその後も活躍し、地位も高めたが、「関ヶ原の戦い」で敗北した毛利氏に従い山口県萩に移った。
 現在可部には 
★熊谷氏が最初に居住し、今でも本丸跡・上ノ段・中の段・下の段・後ノ段と呼ばれる郭跡が確認される「伊勢が坪城跡」  
★本丸、二のノ丸、鐘ノ段、与助の丸、馬場、明堂寺跡や郭にわずかに残る石垣などの山城遺構が残る「高松城跡」  
★城下町であった町中には往時を偲ばせる・熊谷氏居館の「土居館跡」
★巨石を3mぐらいの高さに積み上げられた約100mの長さの石垣が残る「菩提所観音寺跡」  
★境内の一画に小さな「観音堂」や奥まった箇所に4~50個の「五輪塔・宝篋院塔がある墓地」  
★有田合戦で戦死した元直の死骸から腕を持ち帰って洗ったと伝わる、伝説「血洗いの池」  などの史跡が点在している。

          ( 以下の写真をクリックすると拡大写真が見れます )
 伊勢が坪城跡(大林)  高松城跡(高松山)  土居屋敷跡(三入)
 菩提所観音寺跡の石垣(三入)  菩提所観音寺跡/観音堂(三入) 菩提所観音寺跡/熊谷氏墓所(三入)
熊谷氏の系図をみる

             参考 :  ☆
安芸武田氏支配地域の主要山城図(主に、現在の”安佐南区””安佐北区”)を見る(ここをクリック
                    ☆
安芸武田氏の系図を見る(ここをクリック
                                                参考文献:
                                                                             HP 「武家家伝」熊谷氏
                                                 
              「可部町史」
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