安芸武田氏の傍流
[田原武田氏] は 安芸武田氏の傍流で、その始祖は武田元繁(有田合戦で戦死) の子、新助であり、光和の弟である。
父の戦死後武田山山麓(広島市安佐南区)の綾谷に住んでいたが、大内氏の命を受けた毛利元就等に攻められて安芸武田氏が滅亡した時、現在の広島県山県郡北広島町大朝の田原に移って帰農している。 以後、子孫は当地で庄屋や寺子屋の師匠屋(教師)を勤めるなど郷を主導する役割を果たした。
武田新助が田原で居住した屋敷や帰農した経緯などについて[大朝町史] に記述されているのでそれを紹介する。
『 田原の武田屋敷は 「田原村国郡刺下調書出帳」 に 「広家雲州へ御国替之砌、森脇越後あき屋敷へ新助入替-----、
越後智行之内手作り跡取、百姓仕候」 とあるが如く、もと元春時代の家臣森脇越後のいたところである。 今少し、文化九
年十月田原武田氏9世武田三瓶勝牛が記した武田氏系図によってみると、 「武田太郎座衛門元繁(有田表において戦
死) ノ子新助信景、幼少ニシテ佐東アヤガ谷ニ潜居」 のところ、 「金山没落セシカバ、其母ニ従ヒテ麻生興三左衛門トイフニ
介抱セラレテ山県田原村ニ移住」、 「其後母公ハ吉川元春公ノ臣森脇越後殿へ再嫁シ-----、雲州へ移タマヒシカハ森脇
ノ家へ新助殿入リタマヒ名ヲ四郎右衛門ト改、森脇ノ知行半(ママ)ヲ受、越後の女ヲ妻トシテ農業ヲ事トス」 という。 すなわ
ち 「新助」 とは武田元繁の遺児で田原武田氏の始祖となった武田新助四郎右衛門その人、かれは屋号を 「土居」 と称し、
その家名は長く存続し、やがて明治維新を迎えた。
今は絶えて屋敷跡も田地と化しているが、大正初期家屋解体前における武田屋敷の模様は、武田氏の末、会田靖道氏
(浜田市在住) の綿密な聴取り調査によって見取図が作成された。 大朝町内にのこる中世の居館跡の様子をもっとよく窺
知できるものと思われる--------------。』
[大朝町史]を基に、[田原武田氏の略系図]、現在の[居館跡付近地図]、[居館図]を再編集したものを以下のとおり紹介する。