観音地区は、極楽寺山が分水嶺で、大きな川もなく従って灌漑用水の乏しい村だった。稲作に必要な水の奪い合いを防ぐため、田圃ひとつひとつに川から取る水の量と、時刻を決めた水番表(江戸時代中期)が三宅に残っている。昭和14年の春から夏にかけての大干ばつは、特にひどいものだった。この被害を機に倉重には隠里溜池・千同には千同池・坪井牛池山(ニの池)・三宅に入りの谷溜池貴船原溜池・屋代には北山溜池・佐方には刈場溜池等各谷筋に溜池建設工事が15・16年にかけて始まった。
機械化の進んでいないしかも戦争中、人力のみで山を削り堤に土を築き上げた努力は、なみたいていではない。特筆すべきは、坪井牛池山溜池である。この坪井堤は、廿日市原、後畑にある。坪井の人が組合を作り、原村の人から用地を買収して池を掘り、極楽寺山尾根にトンネルを掘り抜き坪井側に水を落とすように大正11年1月から二年かけて作られたものである。大干ばつ後は二の池を作り坪井堤が拡張された。
(五日市観音小学校「120年のあゆみ」参照)
「豆のから 打つから竹の やぶれ垣 人さえもれて 荒るる山里」
芸藩通志の編集にあたった頼杏坪(頼山陽の叔父)が当時の観音村を見て詠んだ詩のひとつであるが、この詩からも観音地区が水不足で苦労していた様子がわかる。
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