被爆証言

1. 原爆が夫をさらった 2. 原爆と可部 3. 落下傘3個は亀山に落ちた
4. 白血病に逝く 5. 一人ぼっちになって 6. 母を奪った原子爆弾
7. 弟を捜して 8. さようならヨンスン君 9. 原爆と青春
10.その日私は 11.原爆を通し若い世代に望む 12.落下傘の降下を目撃
13.終戦の際の天皇のお言葉を放送前にキャッチ  14.キュウリの汁で応急処置 


1. 原爆が夫をさらった

龍花 高世
 あの日の朝、私は夫を送り出した後、保護者会のため三入小学校に行っていました。8時過ぎ、ぴりぴりっと大地に何物かがぶつかったような音がし、体に強い衝撃を受けました。
 私たちは、みんな小学校前の橋の下に避難しました。しばらくして、やや落ちついてきたので、すぐ家に戻りました。すると、表のガラス障子が爆風のため外れ、そのためガラスが2枚ほど割れています。
 何か大事が起きなければよいが、とひどく不安でありました。時間はよくわかりませんが、可部のあたりへ落下傘が落ちたらしい、というので、竹槍をもって走って行く人が何人かありました。
 祗園の大下学園の教諭をしていた夫「積穂」は、ちょうどその日は、市内の郵便局へ勤労学徒として出ている女子生徒の指導監督をするため、市内に出ておりました。

 「どうしているであろうか」と、気があせるばかりでしたが、日の暮れ近くやっと帰って来ました。見ると、服のあちこちに血がべっとりと付いており、手と頭の包帯した布にも血がにじんでいました。「戻れてうれしいのう」と夫が言いました。その声は今も忘れません。
 夫の言いますには、「電車で十日市の近くまで行った時、原子爆弾がさく烈(原子爆弾というのは後にわかった)、市内は火の海と化し、電車の進行が止まったので、横川まで歩き、そこから電車で帰った。途中祗園の学校に立ち寄り、事情を報告した。
 可部駅を出たら、偶然、河野茂人先生がそこに居られ、手首を縫うてもらった。頭にガラスの破片が入っているようで、激痛をこらえながら井出の上りまで戻ると、大林の銅銀のバタンコがうしろから来たので乗せてもらった。」==うれしかったようです。
 ところがその後が大変でした。キズの手当てをしに、河野先生の所へ行くのに、歩くことができず、仕方なく、大八車に乗せて私が引いて行きました。
 4日目あたりから、食事をとれなくなり、便所は血便で真っ赤に汚れるようになりました。その始末も大変でしたが、夫もひどく失望しているように見えました。
 夫は「治るだろうか、聞いてくれ」と執拗に言います。仕方なく河野先生に聞くと「何分注射する薬がなくて---」と言われます。
 下痢と血便の始末をしながら、私は、残念だけれどもダメだと思いはじめました。夫は終わりまで気分はしっかりしていました。コト切れる2時間位前「ごちそうが食べたい」と言いますので、あり合わせのもので、心をこめて手料理をこしらえました。夫は乏しい力をふりしぼって、布団からはい出て仏壇の前に行き、仏様を拝み、箸をもつ力もないので私の手で口に入れてやりました。
 「このご飯が食べられんけえわしは死ぬるよ。」と細い声で言いました。死を予見していたのでしょう。そのあと好きなたばこを吸うて---こっとり逝ってしまいました。
 8月16日の午後2時過ぎでした。42歳の働き盛り、被爆してからちょうど10日目でした。
 その日から私と夫との二人三脚の人生は終わりました。死んで行った人もさぞかし無念であったことでしょう。---が、残った私と私たちの子どものか弱い肩には、また別の大きな荷物がのしかかったことはいうまでもありません。---あの戦争が無かったら---原子爆弾が作られたり、落とされなかったら---と悔恨の思いは死ぬまで忘れることはないでありましょう。
(住所 安佐北区可部町大字下町屋48

2. 原爆と可部
笹木 武雄
 8月6日
 旧可部町街道を煤だらけの半裸体、衣服は形だけ、異形の人間の行列。
 何かに憑かれたように、歩くだけが目的のように北へ北へと歩いている。
 可部町民は、きれいな水とコップを出して接待する。
 私は、疎開したガーゼや包帯を出して治療する。可部国民学校の南校舎の国土防衛隊から、また可部駅前の日本生命からも、往診を請われる。
 「今、広島は黒い雨が降り、全市火の海だ。」と伝える人がいた。
 その内に可部警察から招集がかかる。署長は岩谷由松氏。裏の武道場は板の間に、中庭はむしろの上に、被災者で一杯だった。
 昨日、広島市で虫垂剔出した人、骨折、火傷者(ほとんど第3度)、リゾールや赤チンは十分あったが油が少ない。
 薬局の鈴木文枝さんが、一升瓶に蒸留水を入れてきて、傷を洗っておられたのには感心した。
 続々と往診依頼があって、真夏を自転車で往復する途中、ちょうど上原の寺尾の下で常久哲先生に出会う。「あれはエマチオン障碍ですよ。」先生は中国電気の嘱託医をしていて、そこの工務課長が言ったという。
 原爆医療史に、「8月10日陸軍軍医学校では島田中佐以下5名派遣、調査着手後2日目、一行はレントゲンフィルムが感光している事実を発見し、爆弾に放射能があることを知り「原子爆弾」とある。
 ところが、何等の連絡がない避地可部において、その4日前にすでにエマチオン障碍と推定し、治療指針をたてたことは偶然ながら正鵠であった。
 私は、高熱、血便患者を赤痢と思わず、隔離せず、飲み水を禁ずることなく、むしろ体液消耗には注射以上であるとして、飲み水を奨励したのを今も悔いてはいない。
 「可部署管内祗園、可部地区2班の救護を始む。(広島県医師会史)」とある。すなわち8月7日朝、可部警察署階上に医師隣組編成第2班津田侃二氏と座長として浜田二郎、平野登与、武田武人、横山寅一、河野安芸男、吉川正、河野茂人、中村覚、そのほか薬剤師、歯科医師参集。序列、年齢に関係なく外科医として、笹木を救護団長として指名された。(可部に被爆者が多く集まった理由)
 軍隊の患者は、郡部の出身が多かった。広島市の空鞘、鷹匠、袋町住民の避難所として可部が当てられてあった。
 可部国民学校北校舎が陸軍衛生病院に、大林、三入、亀山国民学校が各分院に指定された。原爆医療史によれば、可部3,700人、三入92名、亀山1,215名とある。
 警察を引き払って願船坊、勝円寺、品窮寺に患者を分配、それぞれ本堂にいっぱい。頸部切創を縫合して、発音、摂食を可能にした者もあった。傷に白い蛆虫が潜んではい出す。「取ってくれ」と頼まれ、ピンセットで摘み出すが際限がない。外聴道一杯のものを除いて喜ばれる。全頭脱毛しても全治した人がいる。
 倦怠、はき気、食欲減退、血性下痢、皮下溢血、脱毛、これが定型症状。8月下旬、死亡者が少なかったが、9月になって晴天、気温が上がって軽快に進んでいたが、暑い太陽の下で仕事をしたので悪化して死にだした。
 私は、自宅で毎日午前中50名くらい無料奉仕して、手持ちの医療品が次第に少なくなった。午後は町内の3か寺へ出張した。診療の巡査部長は、砂本吾作氏で、夜中、私を呼ぶ。ビタミン剤か、カンフル、リンゲル注射。朝、死亡を知らせに来る。一朝に50枚の死亡診断書を書いたことがある。
 私は、毎日のように100名余の診療に当たり、ひどく疲労していた。
あたかも胴体が薄い一片の紙と化したように自覚していた。途上、根の谷川畔において勝円寺の和尚さんに会い、「大慈悲とはこのことですよ。」と励まされた。
 炊き出しは五丁目の明神社境内で行った。握り飯にたくあんであるが喜ばれた。もちろん重傷の人には、重湯やお粥を用意した。
 寺の本堂いっぱいに寝ている病人の看護も大変であった。
 痛みを訴える人、排泄を訴える人もあった。昼間はよいとしても、灯火管制下屎尿を訴える人のところへ行く時、足を踏んで怒られる。排泄が間に合わず戸口を汚す。便所があふれて流れ出す。汚物を焼却しても際限なく汚れる。
 寺院ご家族はもちろん、婦人会員のご苦労はなみ大抵でなかった。
(住所 安佐北区可部町大字五丁目554-1)

3. 落下傘3個は可部町亀山に落ちた
津恵 君江  
 昭和20年8月6日午前8時15分。一発の原子爆弾が広島市に投下された。
 その時私は亀山国民学校に奉職していた。1時間目の授業をしていた。授業を始めたと思う矢先、「ピカッ」と眼もくらむほどの閃光、ちょっと間をおいて、「ドーン」という大きな音響と爆風、地震に似た地ひびき、これはただごとではないと、児童を率いて運動場に避難した。
 校長先生以下みんな運動場に、また、学校に疎開していた陸軍病院の幹部、兵隊も出て、口々に、「どうしたことか」「あの強烈な光、大きな地ひびき」「何かが起った」と不吉な想像をした。
 よく晴れた空を不審に眺めていると、はるか東南の空高く、何かが見え出した。だんだん高度が下がるにつれ落下傘3個とわかる。「ああ落下傘だ」という声、落下傘は風に乗り「ふわり、ふわり」と落ちてくる。
 「ようし、ここに落ちてきたら殺してやる。」と兵士たちは、てんでに身がまえをする。落下傘は遠い空から東山上空に降りてくる。「どうぞこちらに落ちませんように、東の方へ行きますように。」と、自分勝手なことを一生懸命祈りながら眺めていたが、とうとう落下傘は可部の上空にやってきた。どんどんこちらにくる。運動場をめざして落ちてくるようだ。
 「あっ、人間ではない、爆弾だ」と兵士の1人が叫んだ。一瞬、恐怖におののき一刻も早くと児童をつれて校舎の北側裏の溝に退避した。息をこらして落下傘の行くえを見ていると運動場には落ちず、溝の上を過ぎて福王寺山のふもとに1個、勝木の中腹に1個、残りの1個は大毛寺の報恩寺の西、大毛寺川を隔ててすぐ近くの水田に落ちた。落下傘についている爆弾らしい物は炸裂しなかった。
 落下傘には傘の下に長さ1・5m位、直径18cm位の金属性の円筒がついていて、いかにも爆弾らしい。
 正体の知れぬ物体である。近寄る者はいなかった。不安と恐怖のうちにその日の午後、広島から陸軍技師、郡役所、亀山役場から調査に来られたが、確かなことはわからないままに、「時限爆弾であるかもしれないから、落下地点から半径500m以内の家は立ち退くように。」との指令があり、該当する人々はみなその日のうちに知人や親戚を頼り疎開した。
 広島の空は、真っ赤に燃えている。すさまじい火の勢い、しばらくするとあやしい形の雲(あとでいうきのこ雲)が空をおおっていく、けんけんごうごう、午後になると被爆者がつぎつぎに避難してこられ、広島の状態がわかり始めた。
 被爆者の方はみんな衣服は裂け、顔や手足は火傷で、皮膚はたれ下り、亡霊のような姿、倒れ死んでいかれた人も少なくなかった。
 8日、落下傘の正体調査のため、東京から海軍技官がこられ検査の結果、円筒形の金属の中には無数の線が工作され、これは電波探知機の役目を果たした残骸である。ということがわかった。
 原爆の日から早や40年の歳月が流れた。ひろしまの惨禍を、そして被爆者をはじめ、多くの市民の犠牲を忘れてはならない。核戦争の恐怖は人類の滅亡である。
 戦争を知らない若い世代よ、子供たちよ、絶対に戦争をしてはならない。世界の恒久平和を積極的にすすめることこそ我が国の使命である。
(住所 安佐北区可部町大字大毛寺1,155)

4. 白血病に逝く
末次 花子
 昭和20年8月6日の朝、空襲警報が発令されました。近所の人と2人の娘と共に防空壕へ入りました。しばらくすると、空襲警報が解除になったのでみんな防空壕を出ました。(寺町横川橋前)
 小2の君子は、善正寺へ勉強に行き、私は2階へ掃除をしに上がりました。真佐子もついてきました。
 上がるとすぐ轟音と共に家屋が倒壊しました。
 一瞬の出来事で娘と共に下敷になりました。大声で何十回も声を揃えて助けを求めました。
 けれども外からは何の答えもありません。どうにかして外に出て真佐子を助けたい、ともがいたが、全然動くことができません。駄目かとあきらめていましたら外から隣の老婆の声がして、息子さんの名を声をかぎりに呼んでいます。
 「自分で早く出なければ、警防団も誰れも助け出す人はいないよ---」と繰り返し言っています。
 その声を聞いて、どうしても外に出なければならない。出たら娘を助けることができると思って、力のある限り足を動かしました。
 すると、足の方からかすかに光がさしてきました。無理やりに外に出ました。どんなにして出たか全然覚えていません。外はうす暗くてよく見えません。顔、頭、胸、両足とけがをしているので立ち上がることができません。
 うずくまっていると、家の一角から燃え上がりました。
 裏の別院の方からも火の手が上がった。町内の人が、「危ないから早く川の方へ逃げなさい」といって立ち去られました。
 私は、 真佐子が下敷きになっているので逃げることはできない。うずくまっていると女の人が「早く逃げなさい」と叫ばれました。
 娘が気にかかるが、顔が熱くなったので心を残してはいながらやっと川端まで逃げました。
 大粒の雨にぬれて寒さに震えている私に、小2の君子が善正寺から帰ってトタンを拾ってかけてくれました。夕方頃、主人が帰ってきて、私を背負い、己斐方面へ避難しました。君子は、はだしで黙々とついてきました。
 そこから五日市の救護所まで車に乗せてもらって逃れました。救護所は、広い板の間いっぱいにけが人が寝かせてありました。
 頭の割れた人、黒く焦げた人、うめいている人で、目も当てられない惨状でした。
 救護所で8月24日まで治療してもらいました。
 それから進駐軍が来るということで、立ち退かなくてはならない。仕方なく私の里の高陽町中深川へトラックで行きました。途中揺れるので全身の傷が痛くて耐えられないようでした。
 中深川には外科医がいないので、内科医へ毎日義姉に連れられて通いました。里にも、兄、甥、姪の3人が被爆して寝ていました。
 10月頃、やっと歩けるようになったので、可部へ行き保護所へ通いました。貧血で目まいがひどく、杖にすがって歩きました。
 親類の家に間借りをして、親子4人細々と暮らしました。3度も転宅をしました。
 やっと人間らしい生活ができるようになった、昭和37年8月に君子が病気になり、原爆病院に入院しました。病院には白血病の人、肝臓の悪い人、糖尿病の人など、たくさんの患者がおられました。君子は、それまで一度も病気をしたことはなかったのですが、急に発病しまして、「急性骨髄芽珠性白血病」という病名で、6か月治療しましたが、「わたしは死にたくない」という手記を残して亡くなりました。
 君子が祗園高校時代のクラスの有志が、追悼抄を作ってくださいました。
 君子は、いろいろと生活設計をして、希望を持って生活していましたのに、思いがけないことで、私は悲嘆にくれました。3か月ばかり泣いてばかりいました。が、諦めて毎日毎日お寺へ参りました。何回も聞法しました。それから諸先生の講演を聞き、講座のグループに入りました。
 そのうちに思い直して、希望をもって働くようになりました。
 もう二度と戦争をしてはならないと思います。私のように悲しい思いをされた人が、たくさんおられると思います。
 争いをなくするには、小さい時から思いやりのある、優しい心の子どもに育てなければならないと思います。
 平和な家庭、隣り近所、地域のみんなと仲良く暮らしていき、県内、国内、果ては世界へと、平和の輪を広げていきたいものといつも念願しています。
(住所 安佐北区可部町大字可部467-1)

5. 一人ぼっちになって
松本 政夫
 昭和19年、父は赤紙1枚で陸軍二等兵で出征、中国大陸に派遣されました。残された身重な母、妹、私、我が国本土も空襲を受け、爆弾が雨のように投下され、焦土となりつつありました。
 校庭や家の庭には、防空壕が造られ、防毒面1個が配布されました。
夜は燈火管制、暗闇、空襲警報が発令されると、探照灯が夜空を照し敵機を追っていました。物資も食糧も乏しくなり、国民は竹槍で武装し、敵の上陸に備えました。20年3学期、広島も危険になり、4年生以上は親元を離れ、集団か縁故か、どちらか疎開しなければならないことになりました。
 私は、舟入町から可部町の祖父の家に疎開し、可部国民学校6年生に入学しました。勉強時間は少なく、全学年で野草を摘み、代用食を作ったり、高学年は山を開墾し、さつま芋を植え、農繁期には、学校は休みで麦刈り、田植えの手伝いなど、私は農作業は初めてでとまどうことが多く大変困りました。中学生は軍需工場に、女学生は挺身隊として工場で働きました。みんな腹ペコで働きました。
 日曜日には、時々、母や妹、弟に会いに帰り、楽しいひとときを過ごしました。8月5日も母のもとに帰り、6日みんなで可部に行くことになり、市電に乗り、十日市電停を過ぎた時でした。
 突然、真暗闇に包まれ、押しあい、悲鳴、「出して」と叫ぶ者、この世の最後かと思いました。薄明るくなった時には私たちだけになっており、母、妹、弟は無惨な姿で、車外に出ると人々は異常な姿で右往左往、家屋、見る物すべてを倒壊し、下敷きとなり「助けて」と声が聞えました。
 四方八方火の海、人々の逃げる方向について行く、目に入るものは地獄で悲惨きわまりない状態でした。
 8月13日に妹が、15日に弟が、24日に母が死にました。私も食欲がなく、日ごとに衰弱し、頭髪も抜け、近くの医院で治療を受けていましたが、薬もなく火傷に赤チンを塗るだけ。先生が「この子はもう駄目」と言われ、生死をさまよいましたが、次第に回復し、学校に行けるようになりました。青白い顔、髪はなく、学校からは「ツルキン」とひやかされ、さまざまな悲しい思いをしました。
 私が、5日に舟入に帰らなかったら、母も妹も弟も、舟入におれば助かったのではないかと思い、墓前に合掌し、今なお詫び続けています。
 父は11月23日、中国大陸で戦病死、私だけ、なぜ生き残ったかと悲嘆にくれました。戦争犠牲の一家です。一度戦争になれば敵も味方もなく、多くの悲劇が生じ、家庭は崩壊します。世界中が戦争のない、平和でありますよう願っております。 
(住所 安佐北区可部町大字中野156-11)

6. 母を奪った原子爆弾
上畠 露子
 昭和20年8月6日午前8時15分、私は広島駅で汽車に乗っていました。発車時間も過ぎた頃、一瞬、暗闇となり気がついた時、友人は眼鏡で顔に傷を負い、血が流れていました。急いで外に出て、防空壕に入ると、子供をおんぶした人、傷を負った人たちでいっぱいでした。
 しばらくして外に出ました。電線は垂れ下がり、電柱は傾き、電車は止まり、窓ガラスは破れ、駅前一帯はどうなったのか、さっぱりわかりません。
 友人と別れ、それぞれ家に帰るつもりで的場町まで来ました。
 なんと不気味な感じ、市内より出て来る人に聞くと、町に入ることは不可能とのこと。
 しかたなく海田町にある会社の課長宅の所へ行く(会社は観音町、旭兵器)途中、出会う人はみな、火傷したり、けがをしたり、着ている物はぼろぼろ、あわれな姿です。
 夕方には我が家に帰るつもりでしたが、市内は火の海で入れないとのことで、その晩は課長宅に泊めていただき、翌7日朝、友人と的場町まで来て驚きました。
 見渡す限りの焼野原、宇品が見える、己斐も見えます。焼け残ったビルの残がい。
 皆実町の友人宅は、家が傾き、室内はがたがた。でもお姉さんはお元気で何よりと思いました。
 比治山橋を渡り、鷹野橋へ、道路のあちこちに、黒こげの死体、馬のふくれ上がった死体、「あゝ」と他に言葉もなく、目をそむけながら歩きました。
 堺町の我が家も全焼、万一の時に避難する家、父の知人宅が古江にあります。そこに行こうと横川から己斐に出て古江の家に着きました。その家の人はみんな帰っておられました。
 父は夕方帰ってきました。中広町の会社で背中に少し傷を負ったとか、母の行方がわからず、弟の行方もわからず(弟は山陽中学校在学 学徒動員で雑魚場町方面の家屋疎開に出ていた。)、翌8日、母を探しに行く、父が舟入方面で母を見つけ連れて帰りました。
 足首に少しやけどをしていたが、だんだん悪くなり、傷口にうじがわき、まともな手当をしないままに1週間後に亡くなりました。
 弟は学友とともに原爆の犠牲となりました。父は昭和40年、健康がすぐれぬまま他界しました。
 原爆の恐ろしさ、母や弟を失った悲しさ、終生忘れることはできません。
 あゝ戦争はしてはならない。強く強く訴えます。 
(住所 安佐北区可部町大字大林4,059)

7. 弟を捜して
三谷 政子
 広島が被爆して、早や39年の月日が流れました。
 当時私は、三滝分院で見習い看護婦として勤務しておりました。
 8月5日、私は、従兄弟の入隊を広島まで見送り、その足で山県郡八重村の祖母の元へ帰りました。
 8月6日、松根油を採るために地元の人と一緒に奥山に入って、松の木にのこ目をいれていました。そこへ「ピカッ」と鋭い光がのこに当たりました。
 私には基町西署に勤務していた弟がいました。弟の安否が気になる。弟を捜さなければ、私は三分づきの米で御飯を炊き、むすびをこしらえ防空ずきんを被り、水筒を肩にかけ、朝4時に家を出ました。
 八重村から可部まで山越え、可部で肥汲の馬車夫さんに会った。理由を聞いて、「疲れただろう。これに乗りなさい。わしもこれから娘を捜しに行く所じゃ」とその馬車に新庄橋まで乗せてもらいました。
 そこで降り三滝分院はどうなっているであろう。そう思いながらやっとのことで三滝分院にたどり着きました。
 竹やぶの中から「水、水、」と水を求める声、叫ぶというよりはうめき。横川まで来ると宇品のあたりまで一面焼野原、まだ煙が立ちのぼつていました。
 焼け残った家の塀に人の名前でしようか、地名でしょうか。三、横、沖、はっきりとは読めません。私にはそう見えました。みんな私の親せきの頭文字ばかり、ひょっとしたらと思い、字のある方向に行く。
 死人の山をまたげかき分け、うずくまっている人の顔をのぞきこみ、あてもなく捜し歩きました。親子兄弟がもがき苦しんでいる様を見ながらどうしてあげることもできない私でした。
 ツンと鼻をつく悪臭の人がまっ黒に汚れた体で、血うみの手で水を、水を、とすがりつきます。その血うみが傷にしみて痛い。
 すがりついた人の手の皮がずるっとむけて、私の足にくっつく。傷ついた人は暑さをさけ、きょうちくとうの木陰、カンナの花の小さな陰にも寄り集まっていました。
 すがりつく人に水筒の水を与えると、その人の目に涙、がっくりと首を落し息が絶えました。「ナムアミダブツ」とつぶやく私、今日も弟は見つからなかった。
 江波の方だったと思います。お宮ともお寺ともわからぬまま、そこで一夜を明かしたこともあります。革履をはいて死人の山を当てどもなく捜すこと約10日間位でした。でも、ようとして弟の消息はわかりませんでした。記憶は定かではありませんが、尋ね歩く日数のうちに、2度ばかり真っ黒い汚れた雨がかなりの量降ったと思います。傘をさすこともできずに防空ずきんを被ったままでした。
 傷つき苦しんでいる人に持っているむすびをあげ、水筒の水がなくなると町に流れている水道の水を飲みました。
 けがをした私の足の傷も、倒れている人と同じようにいつしかうじの住家となりました。燃え残りの木で、エイ子、光子、早くと記されていたが?どうなったであろうか。
 その後、自分の病気に気づき、村医者にかかりましたが、薬がないので祖母がセンプリや、ドクダミをせんじて飲ませてくれました。
 足の傷にはジャガイモをすって酢と混ぜ合わせた物を塗りました。頭の髪の毛は全部抜けて丸坊主になり、歯も全部抜けました。祖母はソバ殻を焼いて、その灰とウドン粉を練り合わせた物で頭全体を包んでくれました。そして抜けた毛根からは、次の小さな毛が生えてくるのが手に触りました。
 その後、足の関節が痛くなり、立つことが出来なくなりました。村医者はもちろん、日赤病院にも通院いたしました。
 今、私がこうしていられるのは祖母の薬草のお蔭と思います。夏がくる度に、きょうちくとうの花や、カンナの花が咲くころになると、あの生々しい地獄が私の目の前にクローズアップされてきます。
 思い出したくない、話したくない、でも時には子や孫に涙とともに話すこともあります。
 39年前のこの苦しみ、悲しみは、2度と味わいたくございません。戦争があってはなりません。  
(住所 安佐北区可部町大字大林3,495)

 8. さようならヨンスン君
下河内 良栄
 彼は私の担任ではなかったから、日本名を何と付けていたか?どんな字でヨンスンと書いていたのか知らない。彼は学校中のアイドルで、教師も児童たちも「ヨンスン君」と呼んだ。
 甘えたり、すねたり、怒ったり、乱暴をしたことがなく、「ヨンスン」と呼ばれると「ハーイ」と飛びはねるような笑顔で返事をした。
 彼の両親は相次いで死に、たどたどしい日本語と、常に朝鮮民族衣服を着た祖父に育てられた。祖父はリヤカーを押して、廃品回収をしていたが、保護者会には必ず出席、「ヨンスン、勉強はどこか」と私に聞いていた。
 洗濯上手で清潔な洋服を着せ、ヒザは針り目の揃った刺し継ぎがしてあり感心させられた。
 昭和20年3月「働いておじいちゃんの手助けをする」といって、高等科に進まず、たった1人の卒業生であった。
 卒業証書をクルクル巻いて紐で結んでやり、「ヨンスン君、いい子だったね、大人の中で働くのだから、つらい事があっても耐えるんだよ。」と校門の所で見送った。彼は何度も振り返り、丸めた証書を振リながら帰った。さようならヨンスン君!
 同年8月6日、原爆罹災者が肉親でも見分けがつかない無惨な姿で、ゾロゾロと救護所になっている中原国民学校に入ってきた。
 職員は看護に息つく間もない程。
  「ヨンスンいるか、ヨンスン帰らない。ヨンスンどうしたのか・・・」と叫びながら、祖父は清潔なリヤカーにゴザを1枚敷いて、学校にやってきた。
 私は、校門が一番よく見える廊下の階段に腰をかけさせ、「きっと帰るからここで待つこと」と言い置いて看護のため離れた。看護の合間を縫って、祖父の所へ慰めに行った。
 次々に入ってくる何度目かの罹災者の中に、ふくれあがった顔と手に、どこかの救護所で、白い塗布薬を塗ってもらったらしく、真っ白なヨンスンの姿があった。
  「ヨンスンだよ、じいちゃん・・・ヨンスンだよ。ヨンスン帰ったよ。」
  「ちがう、ヨンスンない。ヨンスンもっとかわいい。」納得できないのも無理はない。
  「ヨンスン!」私は大声を出し手を振った。
 彼はハ二ワのような面相で手を挙げて答えた。「ホラ・・・ヨンスンだ」。祖父は「哀号・・・ヨンスン!」とかけよった。
 柳の木陰に置いていたリヤカーに、ヨンスンをのせ、慎重に引き始めた。「コロコロ、コロコロ、」今も私の目にリヤカーを引く祖父の姿が残っている。
 体に衣服がついているのが、たった1つの救い。「ヨンスン!命は後いくばくもないぞ。もし、助かったら天の助けか、奇跡だ、いい子だったヨンスン君、さようなら。ヨンスンよ、さようなら!」
 リヤカーのヨンスン君は、真夏の午後の太陽に照りつけられながら、塗布薬で真っ白なふくれ上った顔で、ふくれ上った手で曲り角の所で手を伸ばして応えてくれた。
 「さようなら−先生!」きっとそう言ったんだよね、ヨンスン君。
卒業式の日のあの飛びはねるようにして手を振ったのと、死期が追っている体に、力いっぱいの思いをこめて手を振ったヨンスン君。
 あれから40年、生きていたら52、3歳。何年経っても昨日のように涙がこみあげる。さようなら ヨンスン君。
(住所 安佐北区可部町大字四日市864−1)

9. 原爆と青春
杉広 知子
  私たち一家は、終戦の年の昭和20年4月、旧市内より可部町へ疎開して来ました。当時、可部町周辺はほとんどが田畑で、静かな田舎町の風情でした。
 毎日毎日、太田川橋の上を疎開荷を積んだ馬車が通っていました。疎開と同時に、可部高校へ疎開していた広島連隊区司令部へ勤めに出ました。
 8月6日、講堂の中で朝礼中にフラッシュのような閃光が走り、しばらくして大音響がひびき、全員床に伏せました。兵隊さんたちがすぐ外に出て、「みんな広島の方を見てみろ」と叫びました。
 キノコ状のきれいな雲がわき上り、広島の方で何かが爆発をしたんだろうと、すぐに司令部の伝令係の人が本部へ向けて出発しました。
 1時間余りのあと帰ってきて、広島市内は火の海で入市できないとのこと、広島より通っていた人たちはすぐ帰るようにとのことで、女の人たちは泣きながら軍隊のトラックに乗せられて、帰って行きました。
 服もボロボロになり、手の皮がぶら下がった人たちが可部駅に着いたのは、午後1時も大分過ぎたころだったと思います。
 何を聞いてもただ首を振るばかりで、何が爆発したのかさっぱり分かりませんでした。夕方3時ごろ、私の叔父も全身にガラスがつきささりふらふらしながら帰ってきました。
 その当時可部にいた人も、市内で被爆した人たちも、何事が起きたのか全然わかりませんでした。
 9時過ぎごろ、亀山方面に白い落下傘の様なものが落ち、時限爆弾かも知れないと避難命令が出されました。そのあと軍隊が処理に行き、何でもないことがわかり、連隊区司令部の方へ持ち帰られました。
 その当時、日本としては珍しいナイロン製の布やひもだったと覚えています。
 それから負傷者が可部町内のお寺や学校へ収容され、毎日、毎日介抱に出ました。
 全裸に近い若い女性が恥ずかしがる気分もなく横たわり、すでに冷たくなった母親の乳房へしがみつき、お乳を吸っている赤ちゃんもいました。
 火傷のあとにうじがわき、苦痛に耐えている人たち、この世の地獄とはこのことだと思いました。
 無傷の人たちも髪が抜け、歯ぐきから血を出して、つぎつぎと死んでいきました。
 当時、上原の火葬場だけでは事足らず、可部高校裏の川原で毎日死体を焼いていました。
 私は、8月9日に叔母を探しに入市しましたが、市内はまだ余じんがくすぶり、川には死体がぷかぷかと水面が見えない程浮いて流れていました。
 相生橋の上には一面に死体が並び、兵隊さんたちがトタンに乗せ、1か所に集めて焼いていました。
 まだまだ救護作業ははかどらず、土手のくぼみに、3、4人が落ち込み虫の息で、「助けて」「水をくれ」と息も絶え絶えに叫んでいました。
 私は、可部町の収容所にも、2か月位負傷者の介抱に出ていたように思います。
(住所 安佐北区可部町大字上町屋1,394)

10. その日私は
谷岡 博子
 昭和20年4月に女学校を卒業した私は、在校中に学徒動員で行っていた住野工業(横川町で地下タビ製造)に勤務していました。
 8月6日、この日私は、工場で作業を始めていました。5分位後に警戒警報になりました。できたばかりの防空壕に入りましたが、10分位で解除になり、再び作業を始めました。
  その時、何の前ぶれもなく突然、赤いオレンジの世界になりました。地球の終わりが来たのかと思いました。すぐ真暗になり音がしなくなりました。気がついたら作業台の下にもぐっていました。あの大きかった作業場は、一切メチャメチャにこわれていました。
 私は、顔、手、足に少しづつけがをしていました。瞬間の出来事で音もしないほど早く物がこわれることは、想像もできないような恐ろしいことです。それでも生き残った人は、大変幸運者といえるでしょう。
 工場の裏木戸から、早速火の手が上がる気配に、友だち3人で早々と工場を後にしました。
 中広から天満町の、当時、火葬場であった向西館の近くまで行きました。途中の土手や川は、けがや火傷をした人たちでいっぱい、見るも無惨な有様でした。雨が降ってきました。ぬれるままでした。火の海の中を横川の方をめざして逃れました。
 横川の辺りで、机を出して、災害証明書をザラ紙にみんな書いてもらっていました。後にこの証明を持っていた人が、原爆手帳を受ける第一号になったということです。おむすびをもらった気がします。
 とにかく市中には帰れない。田舎の方へ向かって、みんなの行く方に付いて行くだけです。無惨な人たちが、ぞろぞろと大変な行列でした。祇園の建物のこわれた休けい所で、むすびをもらいました。
 そのうち、割にりっぱなトラックが来て、可部方面へ行くとのことでみんな乗りました。可部で降ろされました。お寺に行きました。入口に釣り鐘がありました。(願船坊)本堂に横になりました。
 まわりの人たちは、真っ黒になりひどい火傷をされていました。口びるは、上下5cm位に腫れ上ってみんな虫の息の状態でした。
 現在でしたら大変ですが、散々に無惨な姿を見慣れていたせいか、冷静な気持ちでした。ここにいて思うのは、家族のことでした。家族の安否をしきりに気づかいました。家族が亡くなってしまったのではないかと、気持ちが落ち着きません。
 可部に3日間いました。その間、傷の手当て受け、食事のお世話を受けました。この間にも、たくさんの人々が死んでいかれました。
 もう市内の火事は収まってだろうと思い、帰りたいばかりの所へ、ちょうどトラックが来たので乗せてもらって横川まで帰りました。
 そこで、友だちと別れて1人になりました。家族が死んで1人になったらどうしようか、と心細い思いでした。私の家は舟入幸町なので、江波へ向かって歩きました。途中は見るも無惨な状況でした。
 別院停留所に電車が止まっていて、中で20人位の人たちが、真っ黒に焼けただれて炭のようになり、つり皮をもったままの人、苦しそうに手を空に上げている人、それをみて胸がとても痛みました。
 家に着きましたが、焼けてしまって立札もなく途方に暮れた。近所の人が防空壕から出てきて、父の無事を知らせてくださいました。
 舟入川口町唯信寺にたくさんの人が避難していました。家族はいませんでしたが、知人の家族と出会い、食事もいただいてみんなと星を見ながら外で寝ました。
 夜中にも空襲警報です。死体をあちこちで焼いていました。その後、父や兄など家族とめぐり合って、バラックを建てました。
 私は、身体の調子の悪い時がありましたが、母が毎朝早く起きて己斐の山へどくだみ草を採りに行き、お茶のようにして飲ませてくれました。幸いに私たち家族一同は広島に暮らしました。
 一瞬の間に、多くの人命を無惨にうばってしまう戦争を、二度と繰り返してはならないと思って、勇気を出してペンをとりました。 
(住所 安佐南区八木四丁目39-37)
 
11. 原爆を通し若い世代に望む
原田 みどり
 陸車看護婦に奉職していた私は、昭和20年8月6日、原爆投下の時、陸車兵器補給廠付「現広島大学病院」勤務であった。
私たち救護隊は、軍医大尉の隊長から「全員全力を尽くせよ」という命を受け、連日の空襲で睡眠不足をものともせず、次々助けを求める人たちの救護に当たった。
 全身火傷で皮膚がボロ切れのように垂れ下がった人、創傷、骨折、眼球の飛び出した人、目を覆う悲惨な地獄絵図である。
 どのウメキ声も、どの顔も特別な人は記憶からぬぐい去ることはできない。とりわけ忘れ得ないのは、6歳の男の子が担ぎこまれた時、この子の両親は建物疎開に行ったまま、行方知れずとのことであった。
 右脛骨部にガラスの破片が5cmぐらい突き刺さっているのを取り除く手術をした時、薬品や材料をほとんど使い果たし、本廠からの輸送補給は途絶え、残りの乏しい材料で手術をするのである。
 現在なら足全部を麻酔薬を使って麻酔させるか、局所麻酔で手術するが何も無いから手足をベットに縛り付け、生のまま手術した。
 「坊や、痛くても我慢するんだぞ、もう少しだ、すぐ済むよ。」泣き叫ぶのを推して軍医も看護婦も涙と共にガラス破片の摘出に取り組む。
 そのままだと化膿菌のため足を切断することになる。どうしても取り出しておかなければならない。
 「坊や、このガラスを出しておかないと戦争に負けるからね、痛くても我慢しようよ。」「戦争に負けてもいいからもう止めて。」痛みに耐えかね、戦争に負けてもいいと言った言葉を忘れ得ない。
 私自身終戦の言葉を聞いた時、目本国民でなくなってもいいから、戦争のない国へ行きたいとしみじみ思った。
 上海事変、支那事変、つづく大東亜戦争と、若い時代を戦争に明け暮れたが、何一つよい教訓は残っていない。
 この世に平和に勝る宝はない。平和なればこそ、天地神仏に両手を合わせて感謝するのである。
 戦争中神仏に折りの会があった。「敵が負けますように勝たして下さい」と大真面目で両手を合わせる程、人の心はすさんでいたのである。
大宇宙の真理の前に、こんな勝手な祈りが通用するわけがない。どの時代に生まれても、人間は時代を背負って生きる義務がある。
 今の若い世代に訴えたい、どうぞ平和を維持して下さいと、宇宙時代に核を使った戦争が、地球上どのような結果になるであろうか。原爆から40年心の傷、肉体の創、平和な家庭の破壊などいつまで続くことか。
 私たちが戦争の重荷を背負ったように、平和の維持も困難かも知れない。しかし、地球と人類を守るため、平和は絶対必要である。どの分野に生きる人たちも、平和維持に向けて、世界中手をつないでほしい。宇宙に浮かんだ地球という星が、いつまでも美しく平和であることを祈りたい。 
(住所 安佐北区可部町大字大毛寺2、348)

12. 落下傘の降下を目撃
竹本 初登
 渡し舟で太田川を渡っていた時、敵機らしきものが川沿いに上空を北上した。
 川から徒歩で5分位の所の可部国民学校南校舎に着き、8時の朝会をすませて、児童、職員は教室に入った。その途中、先ほど北上したと思われる飛行機が、南下し間もない時、廊下の窓が「ピカピカッ」と閃光と共に、大きな音がした。何事かと校舎をながめたが異常は認められず、そのまま運動場に出た。
 見ると祇園の辺りと思われる所は白煙が幅広く立ち上がり、さては祇園がやられた、と直感した。
 職員も、児童も、運動場に出て、南を見ていると落下傘らしきものが南からフラフラと北の方向にやってくる。
 だんだん近づいてくると、落下傘の下に直径5、6cm、長さ2m足らずの円筒形のものが横に吊られている。人らしきものとは思われなかった。
 当時、市内の建物の疎開作業のため学校を根城として、7、80人の兵が市内に出動していた。
 たまたま留守番の5、6人の兵が、「先生、心配しなさんな。あれは米兵だ。僕らがやっつけてやります。」と言って、3人が銃を持って落下傘の進む方向に走って出た。
 何時間かたって帰ってきた兵が言うには、「福王寺の山麓に落ちたが時限爆弾らしい」ので帰ってきた。
 そのころであった。朝元気で出て行った兵隊をはじめ、一般の人々がトラックで運ばれて学校に入ってきた。
 服は破れ、顔や腕は黒ずみ、皮膚は焼けただれ、2度と見られない様相にビックリした。
 やっと出る話に、「広島全域がやられた」とのこと。次々と男も女も同じ様相で入ってきた。
 暑い真夏である。1日1日何人かの人が死んでいく。死んだ人と並んで「水をくれ、水をくれ」と叫んでいる。
 体の穴という穴からはウジが出ている。なんとも言いようのない地獄絵巻きの感じであった。
 落下傘の傘下のものは、投下後の容器であつた。 
(住所 安佐南区八木町渡場)

13. 終戦の際の天皇のお言葉を放送前にキャッチ
竹本 初登
 8月15日、登校すると可部警察署から「急な大事な用事があるので、ガリ版、鉄筆を持って、7・8人の先生に応援に来てほしい」との依頼があった。
 何事かと思いながら、署に行くと、署長、巡査と共に一室に入る。
 署長は、沈んだ様相で「実は、日本は戦争についに負けたのです。今日12時、ラジオを通して天皇陛下により、敗戦のお言葉があります。その内容を皆さんに午前中にできるだけ多くの枚数を印刷してもらいたいのです。12時が来るまでは、この部屋から一歩も出ないでください」とのことで、原稿を読み、何枚かの原稿を渡された。
 そのことを聞いて「ああ、ついに来るべきものが来たか」、一丸となって必勝を祈って苦労し、がまんをしてきたが、負けたとは信じられない、なんとも言いようのない感慨無量のものがあった。
 便所に行く途中、巡査がついてきて、慰めの言葉が「先生、心配しなさんな、これは”手”です。負けたと敵に見せかけて、安心させて上陸するところをやっつけてやろうとの作戦です」と、ばかげた慰めを聞いたことを思い出す。
 当時は紙もなく、印刷所も動かず、我々の手で敗戦の内容を周辺の国民に知らすための重要な印刷物を手がけた。
 12時になった、天皇陛下の、ゆっくりした口調で、我々が印刷したとおりの言葉が流れてきた。みな涙ぐんだものである。 この時の印刷物は、玉音放送のあと、全町に配布された。他町にはない事例と思われる。 

14. キュウリの汁で応急措置
友広 ゆきみ
 8月6日、子供らを学校に送り出した後、ドスンという音で近所の人と共に外へ飛び出た。 
 広島方面に大きなキノコ雲が上がり、見ているうちに可部方面へ大きな風船が、空からふわふわと飛んできた。何かわからないまま見上げているうちに、亀山方面へ飛び去り落ちた。
 数分あとに役場からの伝言、婦人会長の私に、救護のため出動するよう命ぜられた。私はすぐ各支部長を集合、いろいろ話しあった。消防団員も集まり、午後、中原国民学校講堂で協議していたら、トラックで罹災者が次から次へ、顔も衣類も焼けただれ、見分けもつかない状態であり、取りあえず寝かせた。
 住所と名前を聞いて掲示板に記し、言葉の言える人とは話を交わしたが、大方は広島の部隊の人であった。
 歩けない人、ものも言えない人、焼けた皮膚が下がり、衣類もほとんどの人が、身体から下がっているため、婦人会員から1枚でも2枚でも、と持ち寄った。着せるのでなく、寝ている人の上にかける程度であった。
 むすびを差し出しても食べる人はなく、「水をくれ」であった。
 そのうちに1人ずつ死んでゆく。それを消防団の方がタンカに乗せ、根の谷川の川原で焼いた。
 どこにも医師が居られないので、火傷にはキュウリの汁がよいということで、それを火傷の箇所に塗りつけた。そのうちに傷口や火傷のあとからウジがたくさんはい出す。それをハシで取っても、「痛い、かゆい」とうめき、まるでこの世の地獄であった。
 部屋の中は、ブンブンとはえが飛び、悪臭がみなぎり、手の付けようのない状態であった。
 下の浜の針、きゅうの宮下さんの所へも行ったが、ヨーチン位のものしかなかった。
 そのうちに広島や郡内など周辺各地の人たちが、大八車を引いて、次から次へと身内を探しに来られ、1人ずつ減っていった。
 7、80人で満員になり、入れない分は四丁目の品窮寺の方へ送ったり大変であった。
 当時の婦人会員は、上原五丁目・水主町の会員が中原小学校で必死の救護をした。
 町内には各所に救護所があり、いずれも地城の婦人会員が積極的につとめた。
 勝円寺の方は、上中、城の方々が救護に当たられた。いずれの場所も、この世の生き地獄そのままの状況であった。
 今でも、死の寸前の、あの「水をくれ、水をくれ」と叫ぶ声に夜も眠れないことがある。
 「二度とこのような悲惨な戦争、核兵器を使用しない世界を」と叫びたい心情である。思い出すと恐ろしいので、余り語りたくない。            
(住所 安佐北区可部町四日市)
                      
  被爆証言は、次の文献に基づいて取りまとめました。
資 料 名 「あのとき閃光を見た 広島の空に」より 
  昭和59年度 可部町被爆体験記録集 「川のほとりで」
   可部町被爆体験継承編集委員会     広島市亀山公民館、広島市可部公民館 
発 行 者 広島市教育委員会事務局社会教育部社会教育課
発行年月 昭和61年3月

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