広島市郷土資料館の建物は・・・(?_?) 
明治以降、広島には陸軍第五師団が駐屯し、軍事的に重要な都市として位置づけられました。明治27年(1894)の日清戦争に際して、宇品港(現在の広島港)が大陸に軍隊を送り出すための拠点港となって以後、その重要性がさらに増しました。そしてこれ以後、宇品港を起点に、陸軍の諸施設が次々と設置され、広島は「軍都」としての性格を強めていきました。
竣工時の庁舎と缶詰工場(明治44年)
写真提供:株式会社大林組


肉詰め作業

 広島市郷土資料館の建物は、広島が軍事都市へと変貌していく中で、明治44年(1911)に建てられた陸軍の建物の一つでした。「宇品陸軍糧秣支廠缶詰工場(うじなりくぐんりょうまつししょうかんづめこうじょう)」がこの建物のもとの名前です。「糧秣」の「糧」は兵士の食料、「秣」は軍馬のエサを意味します。これらを調達・製造し、軍隊に補給するのが糧秣支廠の役割で、この缶詰工場では牛肉缶詰が製造されていました。現在郷土資料館として使われている建物はかつての缶詰工場のほんの一部分です。かつては郷土資料館裏手(北側)にある宇品西公園のグランドまでが工場の敷地で、工場の北側には食肉処理場が併設されていました。


 宇品陸軍糧秣支廠の缶詰工場は、昭和19年(1944)末まで操業を続けました。昭和20年8月6日、広島に原子爆弾が投下された際には、爆風によって屋根を支える鋼鉄製の垂木が内側に折れ曲がるなどの被害を受けましたが、建物自体の倒壊は免れました。

 戦後はしばらくの間、民間の会社が国から建物を借り受けて食品の製造を行っていましたが、昭和52年に操業を停止し、同54年以降中国財務局によって廃屋の状態で管理されました。その後、広島市が建物と敷地を国から取得し、改修工事の後、同60年5月に広島市郷土資料館として開館しました。なお、この建物は市内に残る数少ない明治期の建築物で、かつ建築技術や意匠が優れているなどの点から、昭和60年4月に広島市重要有形文化財に指定され今日に至っています。 


旧宇品陸軍糧秣支廠缶詰工場・食肉処理場
広島市郷土資料館に改装される以前(1983)の状況。
南方上空から北方に向かって撮影。

このページの背景は、広島市郷土資料館のイギリス積みれんがの壁を写したものです。