常設展示風景

郷土資料館の位置する宇品地区は豊かな干潟だった!郷土資料館の建物はもともと何だったのか?かつて日本一の生産量を誇った“かもじ”とは?江戸時代中期の土木技術水準の高さを示す八木用水や広島を代表するカキ養殖など、豊かな自然と人々の努力に育まれた広島を知るために必見の資料をテーマ毎に1階で紹介しています。

 
入ってすぐのところにある地形模型では、人々の生活の舞台となった広島の姿を示し、伝統的地場産業の分布状況などを知ることができます。また、それぞれのコーナーには、学習の手引きや解説シートを用意しています。さらに詳しくは、テーマ毎に資料解説書や調査報告書がありますので、ご利用ください。販売もしています。
 それでは、常設展示の主なものをご紹介しましょう。

ご案内は以下の各タイトルをクリックしてください
 県令「千田貞暁」と宇品港
 宇品陸軍糧秣支廠から郷土資料館へ
 カキ養殖  ノリ養殖  八木用水  米づくり
 あさづくり  かもじづくり  和傘づくり   下駄づくり
 山まゆ織り  舟   運  昔の暮らし


 県令「千田貞暁」と宇品港 

現在、広島の海の玄関口となって多くの人々でにぎわう宇品地区は、明治の初め頃まで大型の船は、船着場へ直接入ることのできないほどの広大な遠浅の海でした。その干潟は、人々の生活の場でもありました。人々は盛んにカキやノリの養殖やアサリなどの採取を行っていました。明治13年(1880)、広島県令(県知事)となった千田貞暁は、広島をより発展させるためには、大型の船が入港できる港を建設する必要があると考え、沖に浮かぶ宇品島までを地続きにして港をつくる計画を立て、明治17年(1884)に築港工事を始めました。工事は、干潟を生活の場とする人々の反対をはじめ、数々の困難にぶつかる難工事でしたが、明治22年(1889)、約5年もの工期と当初の予定を大きく上回る莫大な費用をかけて完成しました。
 ようやく完成した宇品港も最初はあまり利用されませんでしたが、明治27年(1894)の日清戦争以後、兵隊を戦地へ送り出す軍用港としての役割を担うことになりました。千田貞暁は、工事計画が不十分であったとして処分されましたが、宇品港が軍用港として重要な役割を果たすにつれ、再評価され、大正4年(1915)に宇品の地に銅像が建てられました。宇品港は、昭和7年(1932)に広島港と名前を変えました。
 展示では、工事計画、人造石工法、港の様子や新開地の発展などを紹介しています。

 宇品陸軍糧秣支廠から郷土資料館へ
 明治27年(1894)の日清戦争以後、広島には陸軍の施設がたくさん造られました。明治30年(1897)、陸軍の糧秣の調達と補給を行う専門の常設機関として、宇品陸軍糧秣支廠の前身である陸軍中央糧秣廠宇品支廠が広島市宇品海岸に設置されました。また同年、広島陸軍兵器支廠が、明治38年(1925)には、陸軍被服廠広島派出所(のちの広島陸軍被服支廠)が設置され、広島に糧秣・兵器・被服の三支廠がそろいました。その後、宇品陸軍糧秣支廠は、明治44年(1911)に缶詰工場と新庁舎などを新たに宇品御幸通西側に建設し、移転しました。現在の郷土資料館の建物は、糧秣支廠の施設の一つである缶詰工場だったものです。この缶詰工場では、牛肉缶詰が生産され、特に大正12年(1923)の関東大震災で東京の陸軍糧秣本廠が被害を受けて以後は、牛肉缶詰製造はもっぱら宇品で行われました。
  昭和20年(1945)8月6日、日本と戦争をしていたアメリカは、原子爆弾を広島に投下しました。缶詰工場は、爆心地から約3.2㎞の距離に位置していたため火災は起きませんでしたが、爆風で窓ガラスは割れ、北側の屋根の鉄骨は下向きに折れ曲がりました。戦後は、民間の食品会社が使っていましたが、昭和50年(1975)代の初めには使われなくなり、昭和60年(1985)、原爆の爆風の傷痕を保存して復元された建物は、郷土資料館として生まれ変わりました。建物は、広島市の重要有形文化財に指定されています。展示では、宇品陸軍糧秣支廠の缶詰工場の様子などを紹介しています。
 カキ養殖  

 天然のカキを食べていた人たちがカキ養殖を広島湾でいつから始めたかは、よく分かりませんが、室町時代の終わり頃の天文年間(1532~1555)に安芸国で養殖法が発明されたといわれているという記録があります。江戸時代の初め頃から干潟に竹ヒビを立てる養殖法が行われるようになり、昭和の初めまでつづきましたが、昭和28年(1953)に孟宗竹で組み立てた筏で試験が行われて以後、筏式垂下法による養殖が急速に普及し、生産量も飛躍的に増えました。広島湾を中心に生産される広島県のカキ生産量(むき身)は、現在、日本全体の半分以上となっています。
 カキの養殖が広島湾で古くから盛んになった背景には、太田川が運ぶ土砂などによって広大な干潟が沿岸部に作られたこと、太田川から流れ込む栄養分豊かな水に恵まれたことなどの絶好の自然条件がありました。
 展示では、約2000万年前のカキ貝の化石、カキ養殖史、養殖法やカキ船によるカキの販売などを紹介しています。
 ノリ養殖  

かつて広島湾頭に広く形作られていた干潟は、波静かで、有機質を含む川の水と海水が混じり合い、ノリの生育に絶好の条件を備えていました。江戸時代初め頃、仁保島(現 南区)では自生したノリを生のまま食べたり、乾燥させて遠方へ送ったりしていたという記録がありますが、広島におけるノリ養殖の起源は、明らかではありません。しかし、ノリは、カキとともに古くから広島の特産として知られてきました。江戸時代中頃には、メダケやコザサを用いたノリ養殖が始められました。特に、江戸時代の終わり頃にノリを薄く精製した漉きノリが西国で初めて広島で作られるようになり、大きな発展を見せました。
 しかし、明治に入ると広島湾沿岸の大規模な干拓工事によりノリ養殖場が消滅し、大きな打撃を受けました。その後、ヒビの改良など技術の向上によって生産高を増大させていきましたが、昭和40年(1965)頃からの河口付近の環境の変化によって衰退の一途をたどり、現在、広島県のノリ養殖は、広島湾から広島県東部の福山・尾道方面へ移り、沖合でも養殖が可能な新しい技法で行われています。
 展示では、ノリ養殖法や漉きノリづくりなどを紹介しています。

 八木用水   

 八木用水は、広島市安佐南区の東部を流れる全長16kmあまりの農業用水路で、江戸時代中頃の明和5年(1768)に太田川・古川と安川(当時は、中須で南に向きを変え、現在のせせらぎ公園から新安川のところを流れていました。)にはさまれた地域、特に西原村(現在の安佐南区西原)の水不足を解消するために作られました。それまで、広島藩は、西原村の水不足を解消するため、いろいろな試みを行っていましたが、どれもうまく行きませんでした。
 南下安村(現在の安佐南区祇園)の大工で広島藩の土木工事を請け負う仕事をしていた卯之助は、何年にもわたる現地調査と入念な測量によって詳細な仕様見積書を作成し、八木用水の工事を藩へ願い出ました。藩の許可がおりると卯之助は明和5年4月4日から工事にかかり、わずか25日後の4月29日には通水式を行い、八木用水を完成させました。以後、現在まで200年以上にわたって、八木用水は、農業用水路としての役割を果たし続けています。  展示では、八木用水の流路の変化、当時の工事の様子や現在の状況などを紹介しています。

 米づくり 
 稲は日本人にとって、古くからもっとも大切な作物であり、広島市域でも盛んに米づくりが行われてきました。明治以降、産業の工業化が進んで都市が拡大してくるようになって、しだいに近郊農業として野菜を栽培する農家が増えてきました。特に、近年、その傾向が顕著になってきましたが、現在も稲は、安佐北区や安佐南区の農業地域などを中心に栽培され、その作付け面積は、他の農産物の合計を上回っています。しかし、生産額では、野菜が米を大きく上回って第1位となっています。
 現在の広島市域では、都市的地域以外の農業地域が稲作主体の地域となっています。都市的地域では、高度な栽培技術を生かした集約的農業が営まれており、特に「広島菜」を始めとする広島市の野菜生産額の約80%が生産されています。
 展示では、米づくりの1年の作業などを紹介しています。
 あさづくり

煮扱ぎ屋の庭先模型(再現)

“あさ”は、古くから繊維植物として栽培され、衣服やロープ、漁網などの原料に利用されてきました。10世紀初めの『延喜式』には、安芸国からも“あさ”の加工品を貢納した記述があります。広島市域でも、中世以後盛んにつくられるようになりました。特に近世以降、太田川の舟運が開発されるにつれて栽培地域も広まり、現在の安佐南区古市などを中心に“あさ”の商品化が進み、一大生産地に発展していきました。古市における生産額は、大正8年(1919)にピークを迎えますが、その後、綿糸の漁網や化学繊維の普及に加え、経済不況や近代化の遅れなどによって、その生産は急速に減少し、昭和30年代にはあさづくりの歴史を閉じることになりました。
 展示では、あさづくりの歴史、生産工程や収穫した“あさ”を加工する煮扱ぎ屋(にこぎや)の復元模型などを紹介しています。

 かもじづくり

  女性が自分の髪で日本髪を結うときに、髪型を整えるために使われた入れ髪、添え髪のことを“かもじ”といいます。広島市安芸区の矢野の“かもじ”づくりは、江戸時代初めの寛永年間(1624~1644)に大坂屋吉兵衛が始めたとされています。
 矢野で“かもじ”づくりが盛んになったのは、油抜きに必要な粘土が町内で採れたことや豊富な水が町内を流れて“かもじ”洗いに適していたことなどが挙げられます。現在も矢野川には、“かもじ”の洗い場の跡が残っています。
 “かもじ”の生産は、大正の終わり頃が最盛期で、全国生産の約70%を占め、住民の約80%の人が何らかのかたちで“かもじ”づくりに関係していました。しかし、女性の髪型が洋風になり、日本髪を結う人が少なくなったため、“かもじ”づくりは衰退し、第二次世界大戦後は、“かつら”製造で活況をみせましたが、今やかつての勢いはなく、現在ではほとんど行われていません。
  展示では、“かもじ”づくりの様子、高島田などの日本髪や髢之碑の拓本などを紹介しています。

 和傘づくり  

 広島における和傘づくりの歴史は古く、元和5年(1619)浅野長晟が藩主として入国した際、和歌山から移住して藩の傘御用を務めた傘屋庄右衛門に始まるといわれています。安永9年(1780)、広島から他国へ移出した傘は、13万本に及ぶという資料もあり、和傘づくりがとても盛んであったことが分かります。また、幕末期における広島城下の傘職人は、ロクロ師や傘張骨師などを合わせて約130人を数え、藩も積極的に助成していました。
 明治に入ってからも和傘づくりは盛んに行われ、大正9年(1920)に最盛期を迎えましたが、大正時代の終わりから洋傘に押されて衰退に向かい、昭和10年(1935)の生産額は最盛期の約4分の1強にまで落ち込みました。第二次世界大戦中には、再び活気を取り戻し、戦後しばらく続いたようですが、その後は、洋傘に圧倒されていきました。
 展示では、和傘を構成する部材などを紹介しています。

 下駄づくり 

 広島県内では、全国に先駆けて機械による下駄づくりが始められた福山市の松永が有名ですが、かつては、多くの地域で下駄がつくられていました。広島市域では、安佐北区落合一帯が盛んでした。この地域の下駄づくりの歴史は、江戸時代初期にまで溯るといわれ、元和8年(1622)、諸木村(もろきむら)の吉備津屋清四郎が備中板倉(現在岡山市)で技術を習得して帰り、下駄をつくり始めたと伝えられています。その後、農閑期の余業として周辺の村々にも広まり、広島城下にも近く、太田川上流地域から安定して木材が供給されるなどの好条件を背景に盛んにつくられるようになりました。明治中期以降、県東部の松永で雑木を使った下駄の生産が増加すると、これと競合しない桐下駄 (きりげた) の生産に転換していき、明治末期から大正にかけて生産のピークを迎えましたが、昭和になると急速に衰退し、落合では昭和30年(1955)代後半、安佐南区の八木では昭和60年(1985)代になくなりました。
 展示では、下駄づくりの歴史、下駄づくりの生産暦や下駄の各部の名称などを紹介しています。

 山まゆ織り 

 広島市安佐北区の可部町や安佐町でかつて行われていた山まゆ織りが、いつ始まったのかよく分かりません。元文4年(1739)の記録に安佐町の鈴張、小河内での山まゆ織りの様子が紹介されています。
 山まゆは、日本原産の大型の蛾のヤママユガが作り出すマユのことをいいます。ヤママユガは、クヌギやコナラなどのナラの仲間の落葉樹の葉を食べて育ちます。大勢の人々が住む広島城下の日常生活で必要な燃料として、これらの木が太田川沿いの山々に植えられて豊富であったことなどから、安佐町などの地域で早くから山まゆ織りが行われていたのかもしれません。
 山まゆ織りは、明治時代の終わり頃からますます盛んになりましたが、自然に育つまゆを山から採集していたため、他の繊維製品が機械で大量生産されて安く売られるようになって、しだいに山まゆ織りが少なくなり、広島では昭和初年に産業としての生産はなくなりました。
 展示では、山まゆ織りの歴史、ヤママユガ、糸、織物や山まゆ織りの販売などを紹介しています。

 舟 運

 中国山地に源を発し、多くの支流と合流する太田川は、その周辺の人々の生活と深い関わりを持ってきました。特に、河口のデルタ(三角州)に毛利輝元が広島城を築いてからは、太田川の舟運は、広島城下と内陸部を結ぶ物資輸送の大動脈として大きな役割を果たしてきました。太田川本流では薪・炭などの林産物が、太田川の主要支流である三篠川では年貢米が主な荷物でした。明治時代に入り、藩の統制がなくなり、自由に経営できるようになった舟運は、ますます盛んになりましたが、大正時代以後、陸上交通の発達につれて衰え、ダム建設による水量の減少もあって、昭和時代に入って消えていきました。
 川舟は、川の深さや流れの速さ、用途により多くの種類の舟がつくられました。
 展示室中央には、昭和初期の川舟である大舟を復元展示し、大舟が上流へ帰るときに舟を引く引綱などの用具、舟大工の道具やその外の川舟の模型などを紹介しています。

 昔の暮らし
 みなさんのおじいさんやおばあさんが子どもだった昭和30年代に家庭に入ってきた道具により、大きな生活の変化が起こりました。スイッチひとつで照明・暖房・炊事ができる道具やテレビの普及です。現在のみなさんの生活スタイルにつながる変化でした。
 展示では、昭和30年代前後で生活スタイルがどのように変化したかをさまざまな道具を通して紹介しています。