安佐南区ほか近隣の
武田一族及び重臣たちの墓石 その5 (その他の地域)
N0 | 写 真 | 場所 / 遠景写真 / その他 |
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[福王寺] 広島市安佐北区可部町綾ケ谷 |
墓石は [福王寺] にある。 これは安芸武田氏の初代 [武田氏信の供養 供塔] である。 [武田氏信] について知る=ここをクリック |
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[熊谷氏の菩提所跡(観音寺跡)] 広島市安佐北区可部町三入 |
[熊谷氏] 熊谷氏は源平合戦で名を馳せた熊谷直実の 子孫直時が 「承久の乱(1221年)」 で功績をあ げ、安芸三入庄の地頭職を与えられたので武 蔵国から移住した。 以後、守護/地頭の関係で武田氏と深くかか わり有力な麾下国人領主となる。 特に熊谷元直は「有田合戦(1517年)」におい て武田方の大将として先陣をきって毛利氏と 戦ったが戦死した。 その後、元直の子信直は領地争いなどで毛 利方に転じ、敵であったはずの毛利氏と組ん で武田氏と戦う。 なお、信直の娘芳珪は吉川元春(元就の3男 )に嫁いでいる。 参考:「有田合戦」について知る=ここをクリック |
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[福島大和守の墓](伝承) 広島市安佐南区川内2丁目 |
[福島氏] 安佐南区中筋の土豪であったが、武田氏が 安芸の守護職に任ぜられた当初、安芸に赴任 しなかったので、同氏が守護代を勤めていた。 武田氏が定住した後、守護代を離れ水利の 要害、川内に邸宅を構え川舟の船頭衆から なる 「川の内警護衆=水軍」 の統率者となっ た。 墓石は歴代の当主がこの名を名乗ったので 誰のものかは不明。 「佐東町史」 には、墓所は当家累代のもので 他にも小さな五輪塔が並んでいたが昭和18年 の洪水で流出し,一基のみ回収されたとある。 |
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[武田刑部小輔之墓] 広島市東区牛田新町3-4-94 |
この墓石は [不動院] 裏山の墓地にある。 [安国寺恵瓊] によって建立された。 安芸武田氏当主の多くが 官位=従五位下、 役職=刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう) を拝命して いるので誰の墓か不明である。 |
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[安国寺恵瓊之墓] 広島市東区牛田新町3-4-94 |
この墓石も [不動院]裏山 の墓地にある。 [安国寺恵瓊] 安国寺恵瓊は天文10年(1541)毛利元就の 軍勢に破れ戦死した 「武田信重」 の一子4歳 の 「竹若丸」 が安国寺(現在の不動院)に逃れ 、京都の東福寺などで修行を積み、永禄12年 (1569)安国寺の住持となった。 この竹若丸がのちの安国寺恵瓊と言われてい る。 恵瓊は後に毛利元就や豊臣秀吉に仕え外交 僧として活躍した。 「関が原合戦」 でも西軍の 要職をなしたので、捕らえられ処刑された。 |
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