武田山 東麓(祇園・山本・長束)の

武田一族及び家臣たちの墓石  墓石のトップページ

 武田山の麓には武田氏ゆかりの墓がたくさん埋没していると言われている。 このたび武田山東山麓である祇園・山本・長束地区について調査しましたので、そこでわかったものを掲載します。
墓石の大半は畑や藪、山裾などからでてきたもので、完全な形の宝篋院塔や五輪塔は少ない。
また、五輪塔の形で置かれているものも、掘り出されたものを無造作に積み重ねられており、順序や数が異なっているものがほとんどです。
従って、各墓石の写真を見るとき下の略図と見比べていただくと、どの部分であるかがよく判ると思います。
また、一部分だけしか見当たらないものは、それと一体であった他の部分は、まだ付近のどこかに埋まっているという事になります。
  (なお、奥深い私有地やその他の理由で掲載する事や遠景写真等も避けるべきと判断したものは、それらを掲載しておりません。 まだたくさんあることは確認しています)


☆ 墓石が造られた年代は
  武田山の東山麓に多くの武士が館を構え代々長く定住したのは「安芸武田氏」のみであることから、見つかった墓石は武田氏一族や家臣たちのものであると考えられます。(但し、一部はこの地の戦で亡くなった相手武士の墓も混在している可能性もある)
 しかし、いずれにしても、1221年に武田信光が始めて“安芸の守護”となった時から滅亡した1541年の320年の間に造られたものであることは間違いありません。

        


宝篋院塔と五輪塔について


<宝篋院塔>
<宝篋院塔(ほうきょういんとう>
★宝篋院塔とは本来宝篋院陀羅尼を納めた塔である。中国の呉越王である銭弘俶が延命を願って、諸国に立てたものが簡略化され左図の様な形になった。
我が国では鎌倉期以降、供養塔や墓碑として建立される様になった。
★構成は基本的に左図のとおりであるが、時代や地方により多少の違いがある。
建立年代は鎌倉時代〜江戸時代が主で、一般的に塔身の四方には四仏(阿しゅく仏、宝相仏、阿弥仏、微妙声仏)または凡字が刻まれる。





<五輪塔>
★五輪塔婆とも言う。密教で説かれている宇宙の生成要素である5大思想である・空・風・火・水・地の意味をもっている。
★平安時代中頃から鎌倉・南北朝時代にかけて密教が盛んになると、供養塔として建てられ、しだいに墓標としても建てられるようになった。これは武士等身分の高い家に多く、一般庶民が建てる例は少ない。
★今回写真で紹介する墓石は武田信光が安芸の守護職に任じられた1221年以降、信実の時代に落城した(1541年) 間の、15代、約350年間に建立されたものであると考えられる。


<五輪塔>
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