亀山地域の昔ばなし


目  次
地域の昔ばなし
亀助さんと霊泉
金の茶釜
化かされた男し
手水鉢
キツネと油揚げ
綾織りの屋敷
杉薬師
ななつぎ松
荒神さまのたたり
大工 仁左衛門
かわうそ
夜道をふむな
「ひとつ家」・「ひと走り」
地域のことわざ
地域の方言
 地域の昔ばなし  亀助さんと霊泉
 むかしむかしのことよのう。亀助さんは働きもんでのう、明けても暮れても野良仕事ばかり 、雨が降っても風が吹いても田へ出て仕事をしとったげなで。
 わしらーごはんの前にゃあ仏さんに参るが、亀助さんはこの時間も惜しんで田へ出とったんじやげな。ほいじやが今日で 田植もすむんじやいう日にのー、田の中で虫か何かにさされたんじやげな、もう身体がかゆうてかゆうて転げまわったそうな。
 人がええと云う薬という薬をみなつけ、ほいでもたらんで木の実、草の汁、何んでもつけてみたがなおらん。何日も眠れん日が続いたそうな。里山と木の葉イラスト
 ある晩夢の中で、行定山の神さんにお参りさせーと、お告げがあったげな。ほいで亀助さんは夜の明けきらんうちにお宮へ参って拝んだら、前の湯で拭けと、云うちやったげな。
 ほいで前の湯の中ヘドボンど飛び込んだら、すぐ治ったげなでほいからのー、それを聞いた人が皆ようお参りするようになったげなで。それでかどうかは知らんが、この湯の山にある祠を、湯の山神社と呼ぶようになったげなで。
地域の昔ばなし   金の茶釜
 昔の書き物によると、今井田の神宮寺山に城があった。そしてこの城には宝物として金の茶釜があった。
 ある時のある戦いにこの茶釜が太田川に転がり落ちた。その茶釜を「鳴」という対岸の集落のある人が見付けて持ち帰り、大切に蔵にしまっておいた。  すると、このことを耳にしたある男が大へんうらやましく思い、ある夜ひそかに盗みに入った。ぬき足、さし足、やっと手にして山を越え「やれひと安心」と思ったとたん、突然その茶釜が「鳴へいのう(帰ろう)、鳴へいのう」となり出した。
 泥棒は驚いて、持っていた茶釜をそこへ投げ出した。それでもまだなり止まない。泥棒は腹を立て「エエイこいつ」とそばにあった棒キレを拾い一つ二つ三つ……八つたたいた。すると茶釜は「鳴へいのう」「鳴へいのう」と八回続けて鳴った。泥棒はとうとう持って帰ることをあきらめた。八釜しい(ヤカマしい)という言葉はこのときからできた、といわれている。
 このことがそれから大評判になり、遠近を問わず、我も我もとこの茶釜を見物にきたという。今、荒下から今井田に越す所を神宮寺峠と呼んでいる。神宮寺山とは普通言わないが、同じ所であろうか。神宮寺峠の西の山を茶臼山と呼んでいて、ここにも昔は城があったといわれている。頂上附近に今も井戸が残っていて、その底には金の茶釜があるという云い伝えが残っている。
地域の昔ばなし  化かされた男し
 むかしむかし、行森の某家の男し(昔大家に雇われ、農業や雑用をする為に住み込んでいた人を云う)は非常に働き者で、朝は早くから晩おそくまで一生けん命に働き、主家の人から可愛がられていた。
 ある夏の日、「ロカ平」という所へ草刈りに出掛けた。丈ながくのびた叢はむし暑い。夏の陽はちょうど頭の真上から照らす。さすがに働き者の男しも少し疲れてきたため、ちょっと一服、とそこのお宮の陰に腰を下ろした。
 すると前の叢からひょっこり、若く美しい女がのぞいて、ニッコリと笑いながら手招きした。男しはその顔をよくみて驚いた。澄みきった目、蛾のように細い眉、小さなロもと、笑った時の白い歯、可愛いエクボ・何という美しい女であろう。手招きしているが、わしに何の用だろう。何処かヘ一緒に行こうというのであろうか。わしも、もう年頃だ、こんなきれいな女なら女房にしても不足はない。……御主人にも話して、……とめどもなく空想を発展させ、胸をわくわくさせながら娘の方へ歩いて行った。
 ところが男しが行けば行くほど娘は手招きして下がる。男しは夢中になってついていった。
  一方その主家では、夜になっても男しが帰って来ないので大騒ぎになった。近所の人たちにも頼み、山や川、谷から野をと大勢で探したが見付け出すことができなかった。二日目もわからない。ようやく三日目の朝、村人が下手の小さなお宮の床下に、死んだように長くうつぶせになっている男しを見付けた。急いで背負って帰り、いろいろ看病したところようやく息を吹き返したが、何を聞いても頭を横にふるばかり、何一つ答えなかったという。
 村人たちは、この男しは草刈りの途中で境内に迷い込み、祠の小さな神木を伐ったので罰があたり、狐に化かされたのであろうと話しあった。
 これ以後お宮の境界をはっきりと定め、まちがってもお宮の木を伐ることのないようにしたとい。と同時に「女を見たら狐と思え」とロからロヘ男の間に伝わり、迷惑をうけた女性もあったとかいわれるが・・・
地域の昔ばなし  手水鉢(ちょうずばち)
 むかしむかし、ある代官が郡内を巡視していたところ、ある村で非常に気に入った石を見つけた。正面から見、伏して見、見れば見る程気に入った。「ああ良い石じゃのう。」と思わずロをついて出た。
 時の権力者におもねり、その意に添って自分達の安泰を図ろうとするのは、昔も今も変らぬ庶民感情であろうか。村人たちは早速その石を代官の家にかつぎ込み、庭にすえたという。しかしその後、その村人達は代官のお覚えが良かったかどうか知らない。
 綾ケ谷(滑ノ下) の田の一角にある大きな石については、このような伝説が残っている。 又、この石の傍らに石で造った手水鉢がある。里山に続く山道イラスト
 ある時、可部の大金持が来て「うちの庭にちょうどいい。」とこれを持って帰ろとした。ところが元の所から遠ざかるに従い、次第に重くなり、いかに力を入れても重くなるばかりでついに運べなくなり、途中で放り出した。
 家の人たちは、「これはきっと、この石には魂があって、よそへいきたくないのであろう。」と元の所へもどした。 現在もこの手水鉢は残っている。
                       
地域の昔ばなし  キツネと油揚げ
 ある日の夕方、今井田の対岸にある筒 瀬の人が、その母親と可部の町で買物を して帰る時のことである。
 柳瀬と今井田の中程まで帰った時、日 はとっぷりと暮れてしまった。二人連れ とはいえこれは淋しい。「さあ急いで帰ろ う」と云いながら、ひょいと後を見ると、うすあかりの中に坊さんが一人歩いてくる。「はあ坊さんも寂しいのだろう。ほか の男ではちょっと困るが、坊さんのこと だから一緒に帰ろうか。」そう思って立ち 止ると、坊さんも止って動かない。
 それではと歩き始めると坊さんも歩き始める。止ると坊さんも止る。途端背筋に水をかけられたように寒さを覚え、親子は固く手を握って物も云わずに走り出した。
 今井田の明りが見え出してようやく安心し、後をふり返ると坊さんの姿はなく、その代り娘が付いてくる。
 二人は一目散に走って渡し場から舟に乗り、急いで漕ぎ出した。ふり返ると娘は岸辺にじっと立っている。川の中ほどまでさしかかった時、後でドブンと大きな音がした。ふり返ると、先程まで岸辺に立っていた娘の姿が消えている。家にもどって荷を開けると可部で買った油揚げが一枚も残らずなくなっていた。
 これを伝え聞いた人々は、盗んだのだからあの娘は狐だったのだろう、という人がいたり川に飛び込んだのだから獺(かわうそ)だろうという人もいて、しばらくはその話でにぎわったという。
地域の昔ばなし  綾織りの屋敷
 むかし、あるお坊さんが諸国を巡礼していた。ある年安芸ノ国へおいでになり、福王寺山へ登ろうとされた。あいにく日はとっぷりと暮れ、道も見えなくなってしまった。
 坊さんは山あいにある老婆のあばら屋に一夜の宿を求めた。その家の老婆は忙しそうに木綿を織っていたが、「これも何かの因縁じゃ。狭くてきたないところじゃがお泊りなしゃんせ。」といって快く招き入れ、青物ばかりではあったが、ごちそうしてもてなした。
 翌朝、坊さんは厚く礼をいって、福王寺へ登って行った。そのあと、婆さんが昨日の続きの機を織ろうとして、納屋へ行ってみると、不思議にも、昨日の織りかけの木綿が綾(模様を浮かび上がらせた絹の織物) に変っている。
 老婆は初めて、昨日泊めた坊さんは並みの坊さんではない。弘法大師だということがわかり、合掌して拝んだ。
 それ以後人々は、この家を「綾織屋敷」と呼ぶようになったという(現在の綾ケ谷の地名の由来となっている)。
地域の昔ばなし  杉 薬 師 
 「むかし、行基といふ偉い坊さんが来ちゃったげな。この辺はずっと野原での、草がいっぱい生えとったそうじゃ。ほいでの、その真ん中へ大きな大きな杉の木が一本あったそうじゃ。
 その杉がの、仏さんのように見えるけえ、お薬師さんを彫ってお宮を建てちゃったげな。みんながお参りして拝むと、なんでもよう聞いてくれちゃったげなで、えー薬師さんでの・・。
 おーほいからの、杉を切ったかぶいへ松をさしといたら、その松がついてのー、大きょうなったげなで、ありがたいことよのう」。
 傍らを小川が流れ非常にきれいであった。ある日子供たちが遊んでいると、その水の一カ所から湯気が立っていた。しかも、その底が明るく光ってみえた。そこを掘ってみると、仏像が出てきた。それをそこにある杉の木の根元においたところ、ある日仏を厚く信心杉薬師本尊している人が通りかかり「これは薬つぼを持っておられるから薬師様じゃ、早くお祭りしなければ……」といって、近所の人々の力添えで、お堂を建てて祭ったという。
 元禄年間に書かれた杉薬師由来、杉薬師縁起、杉薬師略縁起には「養老年中行基に勅して諸国に国分寺を建て、仏像を安置せしめ云々」と、この伝承と同工異曲のものが記されている。                                                                                            
地域の昔ばなし  ななつぎ松 
 むかしのこと、大毛寺に大変猫の好きなお婆さんがいました。お婆さんの家で飼っていた猫が、だんだん年をとってきたので、お婆さんは猫を裏の山へ捨てました。すると猫は、お婆さんのところへすぐ帰って来ました。
 そこでお婆さんは少し遠いところへ捨てたらよかろうと思い、可部峠まで連れて行き、そこの松の木に縄でつなぎました。
 それでも猫は、その縄を切って帰って来ました。お婆さんはまた可部峠へ連れて行って捨てたが猫は帰って来る。そんなことを繰り返しているうちに、七日目になってとうとう猫はお婆さんをかみ殺してしまいました。
 人間の味を知ったこの猫は、にわかに元気になり、この峠に住み着いて、峠を通る男でも女でも見境なしにかみ殺し、人々から大変恐れられるようになりました。ネコのイラスト
 ところがある日、いつものように通行する人にかみついたところ、それが武士だったので、一刀のもとに切りつけられ、全身血だらけになって逃げました。 武士は血の跡を追って大毛寺までやって来た。そしてある百姓家に入ってみると、猫が苦しんでいる。武士はさらに刀でその猫を切り、家の中を調べたところ、床下に人の骨がいっぱいあったという。
  可部峠で猫をくくりつけた松の木は、頂上の茶屋から可部側に少し下りたところにあったといわれる。
                    
地域の昔ばなし  荒神さまのたたり 
 むかし、といっても大正のはじめころのことである。上大毛寺にある荒神社の附近で、近所の子どもたちが遊んでいた。
 ある日のこと、この荒神社の神体を堂内から持ち出し、小便をかけたり、遊びふざけたあと、元の所へもどさず、一人の子どもが自分の家へ持ち帰って納屋のわらの中へかくした。
 その夜のことである。急にその子の「チンコ」が激しく痛み出した。父親が「今日何か悪い遊びをしたのではないか」と問いつめると「荒神さんを持ち出して小便をかけて、納屋の二階へかくした。」という。
 そこで父親は、その荒神をていねいに元の位置へ安置して″詫″を入れて許しを乞うた。そのあと翌朝になると、子どもの「チンコ」の痛みはまったくとれて、山寺のイラスト平常にもどった、という。
 この荒神には、今一つまつわる話がある。むかしある時、大畑の八幡谷から地すべりがあって、大毛寺川の流域は大きな被害を受けた。このことがあって、この附近の人びとは、二度とこのような災害が起きないように、鎮守・厄難除けに三宝荒神を祭って安全を祈った。
               
地域の昔ばなし  大工 仁左衛門 
 福王寺の建物が傷み建て替えることになり、可部の慶安にいた大工の棟梁円助に頼ん だ。円助はまれにみる腕の良い大工で、この人の指図で仕事もどんどんはかどったが、無 理を重ねたのか、途中で重い病気にかかり、再びたつことができなくなった。
 住職は気はせくが棟梁が病気では仕方がない。誰か代わりにと思ったが、円助ほどの腕 をもった棟梁はちょっとみあたらない。毎日出来かけの建物をみて、どうしたものかと思 案にくれていた。
 その時大工の一人が「和尚さん、心配しなさんな。代わりの棟梁になる人がいるよ。行森 の仁左衛門という人だ。この人の腕は、円助どんに勝るともひけをとることはありやしませ んわい。もっとも人間がちょっとコクレでの。引き受けてくれるかどうかわからんが・・・。」和 尚は祈る思いで何度か仁左衛門の家に足を運び、ようやく承知してもらった。
 こうして円助のあとをうけて仁左衛門が仕上げることになったが、仕事を始めてみると仁 左衛門は、大工としての腕は良いし、仕事の段取もうまい。他の大工の足らない所を補 い、皆を指図し、何もかもスムーズに運んだ。
 しかし、代理の棟梁が仕上げたというのでは、他所様への聞こえも悪いし、仁左衛門もま た代理では不本意であろう。仁左衛門にはこれ程の腕もあることだからと、和尚は「本作料 」という名称を与えた。仁左衛門は、その後ますます仕事に励み、立派に伽藍を仕上げたと 言われている。
 この仁左衛門の腕の良さについては次のような話もある。大野に三川という大金持 の家があった。この家の主人は、大変なやかましやであった。仁左衛門はこの家を建てる ことを請負っていた。
 ある日、仁左衛門が「床柱を入れるのにやりそこないました。」と主人にいった。 主人は「ホー、お前ほどの名人でも、やりそこなう事があるのか。どんな具合いだ。」とみる と柱は真ん中からみごとに切り離してある。これをみて主人は立腹した。「柱の端を二分、 三分切り損ったのならともかく、真ん中を切ったというのはわしを馬鹿にしてのことだろう。 それは許さん。あの柱は近郷近在でたった一本しかないものだ。もと通りにして返してもら おう。」といった。仁左衛門は自分の失敗だから、あの柱をつなぐより外に方法はない。「か しこまりました。」といって下った。
 二日程たって、仁左衛門が主人に「床柱を入れて、床をしまいにしたいのでみて欲しい。」 と云ってきた。主人が行ってみると、ちゃんど先日の柱一本で出来上っている。「これはどう した事だ。柱は二本に切り離してあったが・・・わけを聞き たい。」そういう主人に「そん な事を説明する必要はない。あんたは元通りにして返せと言ったから、そのようにしたま でじや。わしは大工の仁左衛門ですけー。」
 さすがの主人も、仁左衛門の腕前には返す言葉もなかったという。それから後この床は、 主人の自慢の種で、来る人、来る人に見せたという。
地域の昔ばなし  かわうそ 
 タ方になって、今井田から針治療のたのみがありまして行くことになりました。おそうなりつ いでに今から風呂にでも入って、と思って「あとから行きますけん。」といって、今井田から 来た人を先に帰しました。
 風呂からあがり、治療箱を提げてひとりで家を出ました。お宮の横を通り、螺山と茶臼山 の狭い間をとおって神宮寺を越して行けば近道になります。
 茶臼山の近くにきたとき、急に目の前が真っ暗になり身動きができんようになりました。こりやIこまった、と思い、もうすこし行ったら螺山と茶臼山のあの狭い所を通り抜けるこどができるのに、と思っても一歩も動くことができません。目をつむったままです。
 どのくらいでしょうか、その場にかがみこんでおりましたが、平素から弘法大師を信心しておりましたので、しぜんに「かんじざいばさつ・ぎょうじんはんにや・・・」とお経を唱えておりました。
 そうすると、しぜんに目が開き、前が明るくなっておりましたので、急いでその場を通り抜けました。
 そしたら、後の方からドボーンとい大きな音が聞こえました。 ハハァ、カワウソがいたずらをしたんだな、と思いながらも、足ばやに神宮寺を通り抜け、ころげ観音を過ぎて今井田の患者さんの家へたどりつきました。
 おそろしゆうて、おそろしゆうて、頭の髪が一本立ちになって、こんなにおそろしかったことはありませんでした。
地域の昔ばなし  夜道をふむな 
 針治療のために大野まで行ったときのことでした。勝木を越して降りたところにソーズ (水車)がありました。
 回りに家もない。こんな寂しいところに、たった一棟のソーズ小屋がありました。たぶん水が豊富にあったので、こんなところにソーズをつくったのでしょう。夜も遅くなり、ソーズの横を通っていたとき、急に前がまっくらになり、何も見えんようになりました。
 仕方なく、そこに一時間くらいかがみこんだままおりましたが、弘法大師を信心しておりましたので「こんご孫・子の末まで夜道はふみません。」と、弘法大師におたすけをいろりのイラストこいました。
 こうしてようやく、弘法大師のおかげで、大野の患者さんの治療を終え、無事に家へ帰ることができました。
 このことがあってから、この一家は孫・子にあたる、いまでも、なるべく夜遅くまで出歩かないようにしているとのことです。
                    
                        
地域の昔ばなし  「ひとつ家」・「ひと走り」 
 南原峡をまっすぐのぼると本地に抜ける道がありました。 松江街道といい、いまでも歩いて越すことができます。
 その街道での話ですが、ある年の十一月の暮れ方のことです。山の端に三日月がかかっている時刻、これから山を越えるサムライがおりました。そのサムライは、どうしても今晩中にすまさなければならない用事があったのです。
 山道をのぽって行くと、大きな松の木の下でなにやら人のうめき声がしていました。おかしいなあ、と思って近づいてみますと、娘さんが産気づいて、声をもらしておりました。
 サムライは、今晩中に本地まで行かなければならない。困ったなあ、と思いながらも、引き返して応援を頼むにしても、すぐ生まれそうだ。そのままにしておくと狼や狐など、獣の餌食になるので、なんとかしてやろうと思ったサムライは、松の枝に小屋を掛けて、そこに産気づいた娘さんを運んでやれば、安心して、子を産むことができると思い、刀を抜いて枝やカズラを切り、梯子もつくり、松の木に小屋をつくりました。 そして、そこで無事に産ませることができました。
 その夜の一時か二時頃のことです。小屋の下の方でバリバリバリとなにか噛みくだくような音がしました。 サムライは、びっくりして下を見ると、目をひからせた大きな獣が幹のまわりをぐるぐるまわりながら、幹に歯をたてておりました。
 サムライは、刀を抜いて「コヤツ」とお産した臭いをかいだけものがおそってきたのでしょう。 獣は「ギャア」と悲鳴をあげて逃げました。
 サムライは、親子を守って木の上で夜が明けるのを待ちました。夜が明けると、サムライは早くこの親子を安全なところへ移そうと思いました。 木の下を見るとサムライが突いた獣の血が点々と下の方へつづいておりました。
 その血のあとを伝って行きますと、その血こんは茶店の入口で切れておりました。 その茶店にはおじいさんがおりました。サムライが「おじいさん、夕べなにかかわったことはなかったか。」と聞きますと、「ハイ、夕べうちのばあさんが、湯殿か、かわやで目にけがをした、というてねております。」とサムライに答えました。
 けがをして寝ているおばあさんは、化け猫だったのです。 そこで、サムライは、これは大変なことと思い、その猫を退治しました。
 化け猫は、おばあさんを三年前に殺して、おばあさんになりすまして茶店に住んでいたのでした。本当のおばあさんは、三年前に茶店の床下に埋められていたのでした。
 サムライによって親子はたすけられ、化け猫を退治してもらった茶店は、それから、このあたりには茶店が一軒だったので「ひとつ家」とか、お産をたすけ、茶店まで急いで親子を運び、そのうえ、おばあさんを殺しおばあさんになりすまして住んでいた化け猫を退治した、サムライのことをたたえて、「ひと走り」とよばれるようになったそうです。

亀山地域の昔ばなしは、「金亀の里・亀山の昔ばなし・ことわざ・方言」から取りまとめました。
発行者  亀山公民館20年記念祭実行委員会
発行年月  平成10年3月


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