福王寺の羊歯のような人間になれ |
羊歯(シダ)は俗にウラジロと称し、葉裏が白いのが一般的です。ところが、福王寺山の山門近くのシダは、裏も表も同じ色で区別がつきません。そこで、学校道徳(修身)の時間にはいわゆる『ウラオモテのないスナオな人間』になれよ、と、福王寺のシダを『例』に用いていた、ということです。
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金と灰皿はたまればたまるほど汚くなる |
人付き合いもあまりせず、質素を旨としたいわゆる『しまつ屋』をひにくって云う言葉。汚れた灰皿にもたとえた言葉。
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からっぽのバケツほど大きな音を立てる |
集会の席などで、大きな声で同じ言葉を繰り返し、たしかな主張もなく、いわゆる『堂々めぐり』で、結論も出てこないたとえ。
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両方ええのは『ほうかぶり』それでもコブがある |
世の中には、ええと思っても、それはいっときのことで、両方(両頬)は暖かくてええが、結び目のこぶを避けることはできない。四方八方なにもかも十分なことはありはしない。がまん、がまん、というときに用いたもの、です。
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庄屋の娘も伝うてみなければらからん |
むかし、村の庄屋に娘がいました。
妻にもらいたい、とのぞむ人があっても応じてもらえないだろうと、なかなか言い出せません。ある時訪れた『くすり屋』がひと目ぼれして「妻に来てくれぬか」と云うた。すると娘は笑顔で返事をした。「分かりました」と。 それから、この言葉が云われるようになりました。
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親の意見と冷や酒は後から効く |
親が死んだあと、親身になっていろいろ意見や注意をしてくれる親がいないのは淋しい。
自分が独りになって、初めて親の『ありがたみ』が分かる。が、もう遅い。『冷や酒』と親を並べて、後から効く、としている。
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口と財布は締めるが得 |
ぺちゃぺちゃと、むだ口をしゃべることは、あまり好ましくない。財布も同じことで、あとさきを考えないで使うと空(から)になる。どちらも、ほどほどに後悔しないように気をつけよ。との教訓。
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鰯(いわし)を食うた晩は遊びに出るな |
昔は、田舎では副食に鰯を食べることは滅多になく、あっても夕食のときが多い。遊びに行き、そこで小便をすると、養分の多いものが外に出る。という意味をふくんでいる。
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普請のことは夢にもみんように心がけよ |
普請をすることは、経済的にも、精神的にも大変なことである。
特に家庭の主婦は、片付け、掃除、配膳などで、肉体的、精神的負担は格別なものがある。そこで昔から普請は辛いもの、ということを戒めたことわざ。
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そうめんのような奴 |
そうめんは煮る時、なべに折って入れてよいし、そのまま入れてもよい。 つまり、どちらでもよい。そういうことから『折る』を『居る』にからませて『居っても居らんでもよい』にひっかける。つまり、どうでもよい人を『そうめんみたいな人』と皮肉った云いまわし。
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かみそりで薪は割れぬ |
人にはそれぞれ相応の持ち味(素質)がある。 自身も経験もないのに、一獲千金を夢みて、うっかり乗ったら大変なことになる。『用心せいよ』と古老の教えた言葉。
薪を割るには、いくらかみそりがよく切れるからといって使っても、目的は達せられない。
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川瀬の音が高くなると、雨が近い |
気象の関係で川瀬の音が高くなることがある。そのあとは決まって雨。長い生活の体験から生じた生活の知恵。
農作業など、天候を予知するときの予報として川辺の農家ではよく云われた言葉。
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お尻に目ぐすり |
見当違いの表現。目ぐすりは目に用いるものであるのに、お尻の痛いときに塗ることー効き目は全然ない。 適材適所の意味も含めている、という人もある。
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種ものは、寒い所からもらう方がええ |
すべて種物は寒い地方で取れたものが育て易い、という意味。転じて、きびしいしつけで育てられた人は、忍耐力があり、きびしい世の中をを乗り切り根性を身につけている。
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やけのやん八(ぱち)、日焼けのなすび |
俗に「やけくそっ」と云い、日焼けのなすび(なす)とからませていう投げ捨て言葉。日照りのなすは味がなくて食用には不適。どうしようもないときに、言葉を重々しく表現するためによく用いる。 やけのやん八は言葉のあや、日焼けのなすを生かしている。
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縄のない初めと、身代(財産)の持ち初めは、こまかい程よい |
苦労して得た財は、使う気にならず残るが、ギャンブルで労せずいてもうけると、その財は安易に使い、失う。
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