矢野の歴史概要

広島市安芸区のうち海田湾に注ぐ矢野川の下流地域で、中世に野間氏の拠った発喜(保木)城下の市町で、矢野浦として発達した港津でもある。
地名の由来は、「秋長夜話」に「矢野村ハ箭?<竹に幹>(やの)村なり、此山より箭竹を出す、名産なり」と記す。箭竹は弓の矢を作る竹。

古代
矢野に人が住みついたのは、縄文時代の早期とされ、矢野小学校校庭から縄文土器が出土されている。
弥生時代後期になると、町の北西にあたる西崎にも人々が定着し、同所から弥生土器や石斧などが出土している。

養隈郷 平安期の郷名。安芸国安芸郡十一郷の一つ。(十一郷は、安芸<府中>、船木<荘山田>、養隈<矢野>、安満<江田島>、駅屋、宋山<中野>、漢辨<可部>、彌理<三入>、河内<小河内>、田門<三川>、播良)和名抄より。東急本の訓は「也乃」、高山寺本の訓は「夜乃」。芸藩通志は隈は濃の誤りとして矢野村とする。

中世(平安後期~)

安摩庄内矢野浦  (矢野の歴史その2を参照)

矢野城と熊谷蓮覚 (矢野の歴史その3を参照)

野間氏の城下町
文安2年(1445)足利義政から矢野の地を与えられて、尾張の野間庄から矢野保木城に入ってきたものであるが、弘治元年(1555)毛利氏に滅ぼされるまでの150年間芸南地方の一勢力として活躍した。

野間氏から毛利時代へ (矢野の歴史 追補を参照)

毛利時代
保木城落城後、野間則全は京都へ逃れたが、福島氏時代となって矢野へ帰った。この時、福島氏から度々召されたが、
自身は出仕せずその子を代わりとし、大井の四方灘の藩の御船入の御船手浦役人の一人となった。
浅野時代にも大船頭として野間作右衛門の名があり、野間氏の子孫と思われる。

近世(江戸期~明治22年)
矢野村。安芸国安芸郡(もと安南郡)。広島藩領。蔵入地。
特産の髢(かもじ)は寛永年間(1624-1643)に大官田吉兵衛の創始と伝える。(矢野のかもじ参照)
幕末にかけて西崎新開・尾崎新開などが開発され、木綿を栽培した。
港は、大浜・大井が漁船溜り・商港として栄えた。牡蠣の養殖も盛ん。
明治3年長慶寺に啓迪舎を開設、県下小学校の嚆矢といわれる。明治4年に広島県となる。

近代-現代(明治22年~大正6年・矢野村/大正9年~矢野町)
新開地の綿作は、明治36年ころには、輸入綿花に押され減少。一方、髢は明治30年代から海外へも輸出される。
明治36年、国鉄呉線広島~呉間開通。矢野駅が設置。それにともない海運が衰退。
明治40年豪雨による洪水で64名。(水害之碑参照)
海外移住が明治18年から始まり、大正5年には海外在住者は497人となる。
大正6年、町制施行。矢野町となる。髢の生産が全国の7割を占め、大正11年矢野髢市が開催される。
昭和10年、海田市、矢野新開、その地先が埋め立てられ、陸軍用地となる。(現自衛隊海田市駐屯地)
これにより、牡蠣の養殖が減少するが、戦後筏式養殖で回復する。
昭和30年代から機械・金属などの工場が進出。40年代以降、住宅団地が造成され都市化が進む。
昭和50年、広島市に合併。昭和55年政令市として安芸区となる。



参考資料:廣島縣矢野町史(S33/7/7)、角川地名大辞典「広島県」(S62/3/8)、新廣島城下町(第7巻・広島郷土史研究会)、図説広島市史、矢野公民館資料など。矢野史跡案内図