1.原爆投下時の可部町の概況 |
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広島に原爆が投下された昭和20年8月、当時可部町域には、可部町(旧)、亀山村、三入村、大林村の1町3か村があった。
面積91.74㎢、人口推定18,100人(軍隊の駐とん、病院、学童、その他一般疎開者など、臨時居住者があり、常に移動、集散しており実数をつかみ得ない)を擁していた。
この1町3か村は、その後、昭和30年3月、合併して「可部町」となり、さらに昭和47年4月、広島市と合併(編入)、現在の安佐北区可部町となった。
南に太田川の清流を臨み、東に白木連峰が南北に連なる。北方に堂床山・備前坊山・冠山などの高峰が東西に南面して並び立つ。
西に水越山が立ち、あたかも母の愛児を抱擁する形で、囲ぎょうし可部盆地を包んでいる。
古来この地は、出雲街道、石見街道の接点(分岐点)として、山陰-山陽を結ぶ交通上の要衝として知られてきた。
歴史的にも、古くは弘法大師の開基を伝承する名刹福王寺、中世には、熊谷氏が高松城に拠りこの地を支配した。およそ380年の久しきに亘り、熊谷氏の支配下におかれ、宿場的性格から、さらに城下町的性格をも兼ねるようになり、いよいよ実力をもつ存在になった。
さらに近世に至っては、高宮町の郡元、明治31年、沼田、高宮両郡が合併して、安佐郡が置かれると同時に郡役所の所在地となった。
以来、政治・経済の面で脚光を浴びるようになった。
福王寺・太田川・南原峡など、山と川の自然景観に伝統の史実を加え、「山と川と歴史の町」のキャッチフレーズは、自他共に認めるところとなり定着した。
当時の1町3か村は、可部町の商・工、他の3か村は農を中軸として成りたっていたため、いわゆる「農・工・商の”三位一体”」の理想地域として定評があった。 |
2.戦局の推移 |
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昭和12年7月7日、盧溝橋に発した日支事変は、次第に拡大して止むことも分らぬ中に、昭和16年12月1日、日本は御前会議において開戦を決定し、12月8日には真珠湾を爆撃した。
当初は日本軍が優勢であったが、昭和19年7月7日、サイパン島が陥落した。この時には4万人以上の日本兵と、1万人以上の在留民が死亡したと伝えられている。
昭和19年1月26日、東京、名古屋に初の疎開命令が発せられ、6月15日には北九州地方にB29が爆弾を投下した。さらに、11月24日に東京が初空襲を受け、それ以後は全国各地が空襲されるようになって、国民は、いよいよ戦争が身辺に迫ったことを感じるようになった。 |
3.戦時中の町の様子 |
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当時の可部町は、可部・大林・三入・亀山の1町3か村であって、官公庁のほとんどは可部に在住し、可部・大林・三入・亀北・亀山・綾西・亀西・川手の国民学校と県立可部高等女学校があった。
(1)諸団体
昭和20年4月25日に、広島地区司令官より各町村長に対して、安佐地区特設警備隊を編成するように命令されたために、次のように編成をした。
亀山 34人 |
三入 20人 |
大林 16人 |
可部 15人 |
合計 85人 |
広島県学務部長が銃後奉公会の結成を命令した。この会は、現役または応召軍人の家族や傷痍軍人の家族、戦没者の遺族に対して、生活扶助や事業扶助などを行ったのである。
昭和13年に国防婦人会が結成されたが、昭和17年2月1日には大日本婦人会が結成された。婦人が男性に代わって農作業をしたり、出征軍人留守家庭の慰問や生産援助をしたり、千人針や慰問袋の作成発送をし、防空、防火演習などにも参加した。 一例を大林婦人会の記録より引用する。
昭和18年 9月1日 三滝分院に行き傷病兵を慰問した。
12月20日 出征兵士へ慰問ハガキ150通発送。
出征兵士留守宅へ慰問ハガキ1,500通を発送。
昭和19年 3月8日 ポンプ操作講習会に参加。
7月19日 国防衛生協会主催の救急法講習会に参加。
7月31日 戦時食講習会参加。
9月2日 草刈競技会参加(亀山村にて)
その他、高松城跡にあった防空監視隊の慰問、激励も行った。
(2)学校教育の様子
可部国民学校では、昭和18年9月から防空壕造りを始めたが、その他の国民学校でも校庭を開墾して畑に変え、食糧増産を図った。三入国民学校では、昭和19年の1年間に88回の勤労奉仕作業を実施した。昭和20年3月、政府は「決戦教育措置要項」を発表して、国民学校初等科以外の授業を1年間停止したので、可部国民学校高等科2年男子生徒は、6月1日から大和重工へ、また、7月7日には高等科1年男子生徒が二宮工場へ出動した。 更に昭和20年7月には、各国民学校に学徒隊が結成された。
学校にあった鐘、銅像などは強制的に供出させられたが、亀西国民学校では運動会綱引き用の綱も供出した。大林、亀山、亀西国民学校へは、広島市白島国民学校の児童が疎開した。亀山国民学校へは、昭和20年7月30日に広島陸軍病院の患者が疎開したために、学童は報恩寺、両延神社、農業会の2階に分かれて2部授業を受けた。
昭和19年3月に、可部高等女学校生徒による挺身隊が編成されて、6月10日に広海軍工廠に106人、第11海軍航空廠に40人が出動した。昭和19年11月18日に、三菱祗園工場に4年生109名が、昭和20年3月12日と14日に、3年生125名が、大橋工業可部工場(製靴工場)に出動した。更に昭和20年5月28日には、2年生128名が大和重工に出動した。
当時の状況を知ってもらうために、可部高等女学校生徒であった野平良子さんと、海田高等女学校教諭であった山田敏雄氏の記録を摘記しておく。
昭和19年6月8日、県立可部高等女学校の4年生は、学徒動員出動式を行い、6月10日に広工廠へ行った。寄宿舎生を除いては、家から出て生活するのは初めての者ばかりで、親も子も不安で複雑な心境であったが、国策に沿わなければならない時代であった。
生徒の宿舎は広駅と二方の隧道の中間点にある東谷の宿舎で、田の中に2階建が10棟くらいあり、その一つに1階は可部高等女学校、2階は広島女学院、他の宿舎にも鳥取の学徒や、四国、岡山の挺身隊など女子寮であった。私共は4つの職場に分かれ、それぞれ生産する物が違っていた。
私は宿舎から一番近い広駅の裏のタービン翼工場に配属になり、主として船のスクリューを作った。「花もつぼみの若桜、五尺の生命ひっさげて、国の大事に殉ずるは、吾等学徒の面目ぞ、ああ紅の血はもゆる」
学徒動員のこの歌を、勝利を信じて歌いながら通勤した。慣れない仕事を教わるのは大変であったが、皆は一生懸命であった。9月ごろを過ぎると、元気な男工員は次々に出征した。
そうした状況であっても家族の面会はうれしかった。ハッタイ粉や芋餅などを持って来てくれたが、ある時は、あなたは面会数が多いということで、せっかく来てくれたのに便所の窓から、ちょっと会っただけで別れたこともあった。面会のための列車に乗る切符も、長い行列の末に買ったり、乗車中に警報が発令され、トンネルで長時間待ったのに、面会時間がわずかで、帰路の汽車の予定時間も不明の状態が続いたのである。
岡本校長死去のため、11月26日に校葬が行われ、一同は広工廠より帰り列席した。このころ可部高等女学校は、生産増強に格別励んだということで、戸田正校長先生が代表者として受賞された。
しかし、12月ごろからは生産に間に合わないからと、昼夜を分かたずの3交替制勤務は、特に寒さが身にしみたのである。3月28日には、三次中学、忠海中学、日彰館中学、鳥取高等女学校、広島女学院、などとの集団卒業式が実施されたが、卒業後も動員は続いた。
このころから工場の材料もとぎれるようになり、機械の動かない日が多くなり、どこからともなく、このタービンは人間魚雷のスクリューになるらしいなど、ヒソヒソ話が伝わったりした。警戒警報や空襲警報も漸増し、2km離れた山のトンネルに退避した。走る時に古釘を踏んで、ズックの中が血だらけになったが、その傷跡は今でも魚の目のように、堅く小指が少し変形している。春になって看護学校や上級学校に進学したり、農業委員などのために大分帰って行ったのである。
7月に呉の大空襲があって、一部の工場は跡形もなく破壊され、中にいた中学生が爆死した。幸いに、可部高等女学校の生徒は防空壕に入ったり、その場に伏せたりトンネルに入っていて命びろいをした。
破壊された工場の一部の10数人は、能美島大君へ夜逃げ同様に渡り、終戦の日まで船のスクリューのような物を作っていた。広と能美島に分かれても、私達は最後まで頑張ろうと誓いあった。
8月18日に、最後まで頑張った40人たらずの級友は、可部高等女学校に帰り、ご苦労さんをお互いに交わし解散した。
あれから40年近い歳月が流れ、何回か級会を催したが、当時のことを話し合うこともなく今日に至っている。不幸な時代を思い出したくない心情だと思うのだが、心の引き締まるなつかしい時代も味わうことができたとも感じる昨今である。
教師の日記
昭和20年3月19日(日)晴
昨夜来、敵航空母艦が四国沖にいて、艦載機の来襲があり、大空襲を予想していたが、けさもすでに夜中から警戒警報が発令され、わたくしどもは防空服装に身構えていた。7時30分の汽車に乗るために駅へ急いでいると、空襲警報が発令され、アッという間もなく数十の敵機が、東から南へと黒影を暁天に浮かべて飛んで行くのが見えた。
どこに隠されていたかと思われるほど、ここ、かしこ、から高射砲がダーン、ダーンとうち出され、黒い塊が飛行機の群の中に転げこむように集まってゆくが、なかなか当たらない。私は、一目散に駅へ走った。途中3名の生徒に出会ったので「とても今日は出勤できないから帰りなさい」と言っておいて、駅まで駆けつけたが、待てど暮せど汽車は来ない、聞けばトンネルで退避しているとのことであった。そのうちに退避の鐘が3連打され、「退避、退避」と叫びながら人々は防空壕に走りこんだ。わたくしも行動を共にした。そして、風穴から敵機の飛来するのを眺めていた。時々ヒューッという音がした。爆弾らしい、「アッ落ちた、落ちた」と叫んだ声がしたが、爆撃ではなく急降下であって、あの時爆弾を投下したのだなあと思った。こんなにまで敵機を身近にしながら、どうしようもないということは、実に悔しいなあと口々に話したりした。今日は汽車は通らないだろう、とのことで一応帰宅した。
帰宅してからも、ラジオの情報を聞き、再三横穴に待避した。何度も何度も敵機は上空を飛んだ。ある時は西側の山すれすれかと思うほど低く飛んだりした。高射砲の弾煙はひっきりなしに迫るのに、われわれの眼前では1機も落ちなかったが、ラジオによれば、広島市上空で4機撃墜せりと報道した。
2時過ぎ、ようやく警報が解除されたので、早速学校へ電話をしたら、3時から職員会開催とのことなので、自転車で出勤した。
(3)地域住民のくらし
可部町は、古くから陰陽を結ぶ宿場として栄えた所であり、しかも農村として平和に過ごした土地である。しかし、日支事変以後は男性の出征により、次第に農作業も人手不足になり、生産が低下していった。殊に、昭和19年以降は、疎開学童の受け入れや広島市内からの転入者などにより住宅難となった。
すでに食糧も衣料も統制により配給されていて、住民はいずれも不自由な生活を続けていた。食糧不足、薬品不足、医師の不足などで病人が増加したのは当然の結果であった。
家庭にあった仏具、装飾品のほとんどは、強制的に供出させられた。絵具、画用紙、ノートなども配給されたし、辞書や履物などもわずかであったから、抽せんにより与えられたのである。したがって、科学実験用の薬品や、工作用の釘、板金、針金なども、体育でのボールなどゴム、皮製品の入手も困難となり、正規の授業も支障を来たすに至ったのである。 本土空襲が予想されたころから、民家や土蔵の白壁や、工場の壁や屋根などに迷彩が施されるようになった。
生活は日ごとにつらくなった。たとえば、豆腐を求めるにも大豆5合と25銭を出して、ようやく4丁の豆腐を入手できたので、材料としての大豆を出さなければ金銭だけでは買えなかった。 たばこも極めて少量が配給されたから、喫煙家はヨモギを乾燥して粉末にしたものを吸ったりした。
「欲しがりません、勝つまでは」を合言葉にして、おとなもこどもも頑張った。中等学校以上の生徒学生は日曜日も休まず、勤労奉仕作業に出動したが、いま考えると当時の教師も生徒も、実にまじめに努力したと思っている。
単に教師や学徒だけでなく、地域住民も隣組を通じてよく連絡協調し、励ましあい助け合って生きてきた。 追い詰められた生活の中で、本当の生き方をしたものだと考えるとき、物資の豊かな現在にあっては、かえって物の有り難みも人の心の温みも、感じなくなっているのではあるまいか。そうは言っても、幾十万の人々の生命をなくし、多くの財宝や史跡を灰にした戦争は、再びあってはならないと思っている。
今日の平和と文化が、多くの人達の犠牲と努力の結果、生まれたことを、戦争を知らない人達は銘記してもらいたいのである。 |