原爆被災と亀山

第1節 被爆前の状況 第2節 疎開の状況 第3節 地域での被爆時の状況
第4節 被爆後の状況 第5節 地域住民の救援活動 第6節 あとがき 



第2節 疎開の状況

1. 疎開に対する施策 2. 学童集団疎開 3. 一般疎開 
4. 軍、官公庁、事業所の疎開 5. 第一陸軍病院第一分院  

1.疎開に関する施策
 昭和19年、戦火はいよいよ拡大し、サイパン守備隊の玉砕をみ、米軍は、トラック島を日本本土攻撃の拠点とし、本土空襲は日常化し、戦局はますます悪化の一途をたどった。
 戦争の苛烈化に伴い、軍都広島市を囲む、安芸・安佐・佐伯の3郡は、広島市防衛計画に積極的に参画協力し、重要な役割を果たした。これらの町村は、焼夷弾による火災延焼防止と、避難空地を造るため、国民義勇隊を編成し、建物強制疎開の動員に応じ奉仕した。
 さらに、この立退者の受け入れ、災害回避のため人員、物資の疎開、軍関係、官公庁、事業所などの分散疎開、また前述3郡に加えて、庄原・三次・大竹各市や、比婆・山県・双三・高田・世羅各郡と相提携し、同年7月発表の学童疎開要項により、20年4月より7月にかけて、広島市学童疎開実施表による、集団疎開学童の受け入れに積極的に協力し、多くの支援と協力を惜しまなかった。
 なお、市内各町内会は、災害時の緊急避難先として、近郊各町村を指定し、食料品、医薬品その他救急物資を備蓄した。本通り商店街及び付近の町内会は、第一次を西練兵場、第二次避難先として旧可部町を指定していた。
2.学童集団疎開
 学童疎開には、学校ぐるみで合宿生活を送る集団疎開と、縁故疎開があったが、前述の学童疎開要項により、広島市内各国民学校は、農山村の寺院や集会所に集団疎開を始めた。
 昭和20年5月1日現在、市内国民学校児童総数は 41,638人で、そのうち集団疎開児童 8,365人、縁故疎開児童 17,471人、病気その他での残留児童 15,802人となっていた。
 可部町内への集団疎開は、広島市学童疎開実施表により、旧亀山村と旧大林村が受け入れた。

旧亀山村の集団疎開
 旧亀山村へは、広島市白島国民学校より、76人を4月15日受け入れ、即日学級編制をし教育活動に入った。全員亀山国民学校が受け入れ校であったが、亀山国民学校が多方面(病院、物資格納)に使用の予定で狭いため、亀山、亀西に分散することになった。亀山国民学校の高学年(5・6年生)48人が、中山忠・村田訓導及び寮母1人の引率で入り、亀西国民学校へ低学年(3・4年生)の28人が、吉田宏訓導及び寮母3人の引率で入った。
 亀山国民学校に疎開した児童は、可部町大字大毛寺の報恩寺を宿舎として、寮母と地元婦人2人で炊事などの世話をし、亀西国民学校に疎開した児童は、可部町大字勝木の行森説教場を宿舎とし、3人の寮母が世話をし合宿生活を送り、空虚な寂しい日々を、飢えと闘いながら歯をくいしばって耐えた。
 5月24日、6月29日に、白島国民学校の保護者が、子供の安否を気づかい来村し、また、7月24日には、文部省の係官による疎開状況の視察があった。児童たちはこのような面会を何よりの楽しみとしていた。
 いたいけな児童に、忍耐の極限を強いてきた戦いも、8月6日の広島、同9日の長崎両市への原子爆弾投下による壊滅的惨状をはじめ、大都市の度重なる空襲の痛手に、ついに聖断を仰ぎ長い戦争は終結するにいたった。
 このように辛酸をなめた児童たちも、9月21日、白島国民学校に復帰することとなった。
 疎開した児童は、原子爆弾の惨禍を避け得たが、肉親に多くの犠牲者を出し、身寄りを亡くし、親子の再会ができなかった者も多数いた。
 9月に疎開は閉鎖されたが、いわゆる原爆孤児たちの今後の身のふり方を考えるため、吉田訓導は亀山国民学校に配置替えされ、業務完了後白島国民学校に復帰した。
 (広島原爆戦災詩及び当時の校長小西義郎氏より、可部町大毛寺在住)

旧大林村の集団疎開
 旧亀山村と同じく、広島市白島国民学校より、児童51人、香川、白井訓導及び寮母の3人が、20年4月14日に転入し、受け入れ式を挙行した。
 学年別児童数は、記録がなくつまびらかでないが、全員が大林説教場を宿舎として合宿生活に入った。詳細な記録は見当たらないが、生活実態は亀山とほぼ同じと考えられる。
 9月10日に疎開の閉鎖があり、親元に帰ることになるが、沿革誌によると、21年1月7日に机、腰掛などすべての備品を白島国民学校に返却したと記されており、原爆孤児が残留したことも考えられる。
 (大林小学校 沿革誌)

旧可部町と旧三入村
 可部国民学校と三入国民学校には、縁故疎開はあったが、広島市学童疎開実施表による集団疎開はなかった。
 これら縁故、集団を問わず疎開した児童たちは、復帰まで窮乏生活ながらも、各町村の心温まる支援と激励により、安穏に生活することができ、農村の厚い人情に守られ、親から離れた寂しさをまぎらわすことができたのであった。
3.一般疎開 
   一般家庭においても、縁故者を頼り、あるいは未知の家にと、家族ぐるみもあれば、家財道具のみといった疎開が行われた。町内各家庭は、納屋といわず母屋といわず、家族数や家屋の広さに応じて、役場からの割り当てによって受け入れた。
 広島市町内会は、防衛計画に基づく指令により、疎開態勢は整えていたが、地域や業種により実態は千差万別であった。
 商業地区は夜間は周辺地区に、昼は営業のため戻るといった生活を繰り返し、また防衛計画遂行の人員確保のため、病人老人以外の疎開を禁止した地域もあった。
 このように状況下で、疎開した人も受け入れた側も、青壮年はすでに軍または防衛計画の中に組み入れられ、女子、老人で家庭を守るため、双方とも厳しい生活に生き延びることで精いっぱい、人間関係など思うにまかせず、お互い我慢に我慢を重ね、感情の高ぶりを押さえて頑張りぬいた。
 疎開してきた人達は、乏しい食料を求めて買い出しに奔走していたが、農村の人々も少しの土地も余さず耕し、食糧増産に励む毎日であった。 
 災害第二次避難先として、可部町を指定した本通り商店街及び付近の町内会は、民家の倉庫を借用し、町籍簿の写し、文房具などをはじめとし、常時200人分の食料品、薪炭、塩、調味料及び薬品を疎開していた。
.軍、官公庁、事業所の疎開 
   物資、器具器材などは、戦争遂行に欠くことのできない重要なものであるため、安全確保に様々な手だてを講じたが、軍の機密などにもかかわるため、可部警察署を通じて、学校・役場・農協会(現農協)・神社・寺院に格納保管したが、そのほかの一部は、一般家庭にも保管を命ぜられ有事に備えた。

旧可部町
  (1)広島連隊区司令部
 人員、物資の大半を、県立可部高等女学校及び願船坊に疎開した。願船坊の本堂は将兵の宿舎として使用し、幼稚園舎も閉鎖、軍に提供していたが、8月6日の被爆、同月15日の戦争終結により、軍の残務整理などの諸業務を完了して、11月21日、可部高等女学校で解散式をあげた。
  (2)広島管区気象台
 戦況日増しに苛烈になるにしたがい、重要書類は気象台の横穴式防空壕に、次の器材、書類は旧可部町の了解を得て、中野の友貞神社の建物内に疎開させた。
     ○ 気象観測機器一式
     ○ 無線電信受信機一式
     ○ 観測用紙、帳簿、天気図用紙、規程類
     ○ 当座に必要な事務用紙、切手類
  (3)広島財務局
 可部税務署の鉄筋倉庫及び酒造会社倉庫を借用し、印刷機械、裁断器、重要書類、用紙3年分を疎開した。 
  (4)広島控訴院
 訴訟記録、判決原本は他に疎開したが、書類、用紙類は広島区裁判所可部出張所に疎開していた。
  (5)広島中央放送局
 加入原簿、消耗品等を可部町の民間に疎開していた。

旧亀山村
 (1)軍用物資
 主として軍用毛布、砂糖、衣料、防衛食等を軍の監督下に、亀山国民学校2教室、役場、農業会に収納管理し、余剰物資を両延神社、民家へも保管した。
 (2)輜重隊の遺骨
 報恩寺は学童疎開の宿舎に提供していたが、別に輜重隊の遺骨が安置され、岩本寛光大尉が責任者として、遺族への引き渡し事務を扱っていた。
 (3)中国配電株式会社(現中国電力)
 昭和20年4月30日B29一機の爆弾により、本社構内の木造倉庫その他を焼火したため、資材の分散疎開を急ぐこととなり、電線類を亀山発電所社宅に、諸帳簿を発電所事務室に疎開させ保管した。
 (4)三菱重工業株式会社広島精機製作所
 設備機械は祗園町内、山すその横穴式防空壕に格納していたが、同社製作のベアリングの大量を、大毛寺小西宅南原立川宅に疎開していた。

旧三入村
 (1)軍用物資
 西光寺・東善坊・専隆寺3か寺においても、本堂は軍用物資の保管に使用されていた。
 西光寺では、本堂の畳をあげて、陸軍病院三入分院の敷物として使用し、帆布が山積みされていた。このため、寺としての法務や機能が喪失したため、阿弥陀如来の像を本堂から庫裡に安置し、仏事一切を執り行った。
 東善坊には、防衛食、衣料品が保管され、専隆寺には、非常食、衣料品などに加え、梱包された被服が多量に保管されていた。当時、軍の機密に関することなので、数量、使用目的は知る由もなかった。
 (2)中国塗料株式会社
 緊急時の資材疎開先として、三入地区を予定したようであるが、疎開した実績はない。
5.第一陸軍病院第一分院 
   第一分院は、広島市の中心地西練兵場(現基町市民球場裏)の一角にあったが、20年7月30日に、可部地区分院群を設け、可部北国民学校に可部分院を、亀山国民学校に亀山分院、三入国民学校に三入分院、大林国民学校に大林分院として疎開し、それぞれ200人の患者を収容していた。
 亀山分院は、可部地区分院群の診療本部となっていた。診療本部は、条件とした。これらは野戦病院的構想のもとに計画されていた。
 第一分院が可部地区へ緊急疎開したため、「防空救護計画」を変更し、戸坂分院を第一救護所、可部地区分院群を第一予備病院とした。すなわち、第一救護所は戦傷兵の収容救急処置をし、状況に応じ、予備病院に移送する計画であった。
診療本部である亀山分院近くの亀山農業会倉庫に薬品、衛生材料などを大量に疎開していた。
 このように周到な準備を進めた可部地区分院群も、8月6日原爆投下後直ちに被爆者救護所となり、10月19日被爆者救護を完了して、山口県柳井市伊保庄に移った。(現、国立柳井診療所の前身である。)
 なお、可部南国民学校は、各分院に配属された衛生下士官、兵の宿舎として使用されていた。また分院近くの寺院にも、緊急時のための衛生下士官、兵が10人前後宿泊していた。
 注1 国民学校とあるのは、現在の小学校。
 注2 亀西国民学校とあるのは、昭和37年4月、学校統合により、亀山小学校に合併閉校した亀西小学校。
     可部町大字勝木下行森に跡地がそのまま残っている。
 注3 亀山発電所とあるのは、中国電力最初の発電所で、明治45年創業開始、 昭和47年操業停止したもの、
     現在、太田川漁業組合が全施設を買収利用している。 

  原爆被災と亀山は、次の文献に基づいて取りまとめました。
資 料 名 「あのとき閃光を見た 広島の空に」より 
  昭和59年度 可部町被爆体験記録集 「川のほとりで」
   可部町被爆体験継承編集委員会
     広島市亀山公民館、広島市可部公民館 
発 行 者 広島市教育委員会事務局社会教育部社会教育課
発行年月 昭和61年3月

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