1. 福王寺山ろくの古墳群 |
|
中国山地に源を発して南下する太田川は、可部附近で大きく右にカーブしてさらに南下し、広島湾に注ぐ。
そのカーブした外側に、いわゆる「可部盆地」がある。可部盆地は東方に白木山 880.8m、その手前に中世熊谷氏の居城のあった高松山 339mがある。西は螺山
474m、南は太田川を境して阿武山 586m、北は福王山 501m、に囲まれた「扇型」の沖積平野である。
盆地の西方に大字大毛寺・四日市の全部と勝木・今井田の一部がそれぞれ入る。東方は大字中野・可部・城・中島の全部と上原・下町屋の一部が入る。
南北およそ4キロ余りの小盆地であるが、ここを中心にして古来人びとはこの地に住みついていた。
福王寺の南山ろく一帯のやや傾斜した所に、東西に長く、一連の古墳群が連なっている。
東側から順次西へ九品寺古墳群・城カ平古墳群・上力原古墳群があり、亀山地区に入ると青古墳群が並び、やや離れて給人原古墳群が、長さおよそ4キロの中に点在する。現在までに確認された数は85基を越える。
未確認のものや、すでに過去において消滅したものを加えると100を越えるものと想像される。
これらの古墳群は、いずれも6世紀後半頃から7世紀の中葉までに造られたものである。
これら一連の古墳群の成立をとおして、すでに当時この地方に多くの人びとが生活し、それらを統率する強力な支配者がいたことが証明されている。
文政2年(1819)大毛寺村の庄屋五郎右衛門が記した文書によれば、これら上力原一帯の古墳群を指して「神代の人穴数十穴」という書き出しにつづいて、
「往古入居住仕候由、奥行五間或いは三間、横九尺或いは二間有之、片原に入口有之中に炭の粉等御座侯。いつの頃いかなる人住み申候哉。左右奥は築地にて上は石に仕雨露漏不申侯。当時は野山腰林の内などに数々御座候」とある。すでに当時、古墳の存在を確認していたことがわかる。 |
2. 両延神社境内から銅剣 |
|
この地方が早くより開け、かなり強力な支配者の存在を証するものに、大毛寺両延神社境内から出土した、「平型銅剣」7本の出土記録がある。
これは京都の国学者藤貞斡(1722-1787)が著した「好古日録」 に、
「安芸之国両延八幡の境内地、銅剣数枚を掘、其形大小異皆鋳造スル者也。古昔所謂鉾鋒(ホコサキ)ナリ。此等ヲ以テ考フレハ古昔儀刀ハ皆鋳造セシニヤ」と記し、精細に書いた絵図ものせている。
これからみると、すでに古代において、福王寺山山ろく一帯のみならず、向い側の螺山山ろくにも、古代人の生活基盤があったものと推定される。
(江戸時代京都において出版された書籍で紹介されたこの銅剣が、その後どのように始末されたか、現在その行方はわからない) |
3. 条 理 制 |
|
多くの人が集洛をなして集団生活を営んでいたことを証する「条理制」のあとが、現在可部盆地に明確に残っている。
条理というのは、
古代において土地開拓、管理のために施された大規模な”地割制度”のことである。
土地を360歩=6町間隔で正方形に区切り、横列、縦列を里及び条で数え、1区画をそれぞれ何状何里で表示する。ついでその6町四方(それに固有名詞を付して、何々里と呼ぶこともある)の各区を「坪」としてつくり、それを千鳥式又は平行式の数え方で1~36までの坪名をつける。
起源については5・6世紀頃とする説、大化の改新(645~)以後とする説などがあるが、この制は大化改新以後の班田収授制採用の基礎となり、8世紀頃には今日知られる範囲のものがほとんど完了したものと見られる。
このようにして出来た条理制を、太田川流域について見てみると可部附近・三入地区・八木峠南方・安川南北両岸・祇園の西方広島精機製作所の敷地を中心にした一帯・戸坂・東原の各地に地割りの跡が見られる。
この内、可部附近の条理地割りがあったのは、可部の町裏から西へ数えて11町、南北8町以上にわたる地域である。
条理の南北線は北から東へほぼ9度ばかり傾いている。国道191号線は条理地割りの北限近くを、条理方向とは異る方向に東西に通じ、南限近くには県道可部--宇津線が条理方向とはわずかにずれて東西に走っている。
国道54号線の開通、そこから分かれて西へ延びる191号線、さらに国鉄可部--加計線に河戸駅の設置等交通網の発達は近年目ざましく、それらを軸にして住宅の建設は急テンポで進んでいる。
これらの影響をうけて可部盆地の平地部にあった条理制の遺溝は日毎に破壊され、消滅しつつある。
しかし現在まだ相当のものが残っており、往古の条理制の跡を証明する区割り跡、いわゆる方形に区割した跡を
みることができる。
大字大毛寺にある中の坪、御廻り、呉坪、五郎丸、小路の前、大字四日市の四百目、三百目、二百目、三郎丸、五郎丸等の地名はいずれも古代の条理制と深い関係のある地名として考えられるものである。 |
4. 伝承にみる惣社 |
|
大字四日市徳行寺境内に「惣社大明神」と称する小祠がある。郡中国郡志辻書によると、
「当郡往古高宮郡卜申侯処中古安北郡卜唱申侯。何時ノ頃何の訳ヲ以安北郡卜改申侯力相知不申、然ル処寛文四年(一六六四)四月五日郡名御改替従公儀被為 仰付 高宮郡 安北郡
右ノ趣寛文四年五月御代官 野村吉之助様・林勝右衛門様 ヨリ御触御座侯而五月ヨリ高宮郡卜相改申侯。
高宮郡卜唱侯郡名ノ儀ハ可部庄河戸下四日市村惣社卜申旧宮跡僅二相成居申侯。此宮ノ申伝安芸国可愛宮ノ旧地二而郡名モ此惣社二依ル名ノ由申伝、太田川ヲ可愛川卜日皆此社二依ル名ノ由申侯、一里許奥二恵坂卜日小坂御座侯。
往古ハ此辺迄入海ノ由申侯、惣社ノ近郊二帆待川、船山杯申地名御座侯・・・・・。
惣社は武田家累代ノ祈願所二而大社有之様相見エ申侯。委細下四日市村帳面二有之略之仕侯。云々
これは惣社についての伝承を記録したものであるが、これによってみるとおり、寛文年間の郡名変更=安北部を高宮郡に=した際の郡名を、この四日市の「惣社」に求めているところからみると、惣社の格式が極めて高いものであった、ということができる。
総社の存在を示すものに、これに原因するとみられる政所、御供田、神楽田、姫田、神田、神立田、馬場、土器田、宮ノ前などの地名が現在も残っている。
伝説にも、神武天皇東征のみぎり、この宮に逼留された行宮と伝え、又、武田氏が祇園銀山城に拠ると、その保護を得て長く隆昌を極めたという。
古来高宮郡の地には犬神、トウ病などと称する邪神は郡境にて退散し、一切足をふみ入れず、この理由は惣社大明神の神徳によるものと伝えている。
|
5. 熊谷氏の入部 |
|
やがて中世に入る。全盛を誇った平氏を滅ぼした源頼朝は、鎌倉に幕府(1192)を開いた。頼朝は諸国に守護、荘園・公領に地頭を置き、これらの地方には、源氏直流の家臣を多くその職に任命した。
このようにして天下の権力を手中に収めた頼朝は、さらに辺境の地に至るまで、その権力の浸透と安定を図った。 ついで承久の変(1221)を経験し、これに勝利を収めると、東国における直系の武士を西国の守護、地頭として派遣した。そこで、いわゆる”東国武士団の西下”が、相ついで始まるのである。
この状態を、この地方から挙げてみると、次のようになる。
氏 名 |
現在の市郡名 |
荘園名 |
入部の年 |
熊 谷 氏 |
広島市(旧安佐郡) |
三 入 庄 |
1221 |
武 田 氏 |
〃 |
山 本 村 |
1221 |
香 川 氏 |
〃 |
八 木 村 |
1222 |
香川氏(別流) |
山 県 郡 |
都 谷 村 |
1221 |
吉 川 氏 |
〃 |
新 庄 外 |
1221 |
毛 利 氏 |
高 田 郡 |
吉 田 村 |
1247 |
|
|
三入庄の地頭職として武蔵国熊谷郷から入部した熊谷氏(直時)は、はじめ大林伊勢カ坪に拠ったが、後三代を経て直経の代に高松山に城を築きここに移った。
やがて天正19年(1580)毛利氏が広島築城によってこれに移ると、熊谷氏も一部の家臣を残して、高松城を離れ広島に移った。
関カ原の戦い(1600)が起きると毛利氏は豊臣方西軍の将としてこれに参加、東軍に対した。
しかし、戦い利あらず、慶長5年毛利氏が長門に減封されて広島を去ると、熊谷氏も又これに従った。
承久3年、三入庄に入部して以来、およそ380年の間、この地に根を下し、支配者として君臨したが毛利方では重臣の一人として覇業達成に大きな役割りを演じたのである。
天正15年(1587)頃の熊谷氏の領置高は3万8,700石余に及んだ、といわれる。
熊谷氏は熊谷郷においては中小級の武士であったが、次第に頭角を現わした。三入庄の地頭職となるや、直系直時と、弟祐直の間に領地をめぐる争いを生じ、文暦2年(1235)の関東下知状によって、祐直には西熊谷郷並びに三入庄における3分の1が与えられ、3分の2が直時に与えられるなど一族間の争いを経験した。
以来熊谷氏は直時系(本庄)祐直系(新庄)の2系統の惣領制を生じた。
南北朝の争乱期に入ると、熊谷氏も他の地頭と同様複雑な動きを示し、直経・直氏・直平等一族の大半は武家方に属したが、直行は宮方に走るという状態になった。直行は新庄一分地頭として総領家に対立し、これを凌ぐ実力を備えていたといわれる。
建武2年(1335)12月には安芸の国の地頭を率い、尊氏の挙兵に応じて東上せんとした武田信武の軍を阻止するため、矢野城において花々しく戦い討死している。
南北朝の動乱のあと、熊谷氏は守護大名への転換に努力し、本庄と新庄両派の結合団結に成功した。
これは当時、銀山城に拠った武田氏の支配をはねのけ、独立した守護大名への脱皮を企画したものであるが、結果は武田氏の重圧から脱し切れず、その支配下に甘んぜざるを得なかった。
こうして武田氏の被官として、長く行動を共にしてきた熊谷氏であったが、やがて武田氏とたもとを分つことになる。
熊谷信直の妹は生来の美ぼうであった。これに恋慕した武田光和は、強くこれを所望した。信直もその妹も共に光和の許へ赴くことを拒んだ。しかし主従の関係、武田氏との不和となることの不利益を考慮に入れて、しぶしぶながら嫌がる妹を光和の妾として銀山城へ入れた。
もとより本心のない妹は光和と心合わず、脱出の機をうかがっていたが、遂にある暴風の夜、ひそかに銀山城を脱出して高松城に逃げ帰った。
以来、再三使をよこしたが信直はこれを受け入れず、飯室村の恵下城主三須氏の許へ嫁がせた。
怒った光和は幕下の軍兵1千余騎を率いて天文2年(1533)8月、高松城へ押し寄せ、一挙に攻め落そうとした。 熊谷勢は下町屋横川表でこれを迎え、防戦から攻勢に転じ、武田勢は総くずれとなって引き揚げた。
この戦いを転機として、武田・熊谷両氏の関係は全く絶たれた。
以後熊谷氏は北方の一大勢力毛利氏に走り、信直の女を元就の子吉川元春の側室として姻せき関係を結ぶなど、その間柄はいよいよ緊密になったのである。
戦国大名毛利氏のもとでの熊谷氏は大きな地歩を占め、五将の一人、あるいは七将の一人と称された。これは毛利氏との姻せき関係にあったこともさることながら、忠勤の度合いが高かったからといわれる。
毛利氏が防長両国を手中に収めた弘治3年(1557)末のころ吉田で行われる正月の佳例書に記されたところでは、熊谷氏は平賀・阿曾沼・天野・出羽の諸氏と並んでいる。また元就が危篤におちいり、毛利氏が一大危機を迎えた時、毛利氏の意思決定の場に列席したのは、尼子討伐中の元春を除き、小早川隆景・宍戸隆家・熊谷信直・福原貞俊・口羽通良らであつた。(毛利家文書1209)
中世、熊谷氏がこの地方の地頭としての支配体制、特に住民とのかかわり合い、当時の住民生活についてこれを証する資料は皆無に等しい。日本歴史の上での一般的通説、概念から考察していく以外によるべきものがない。 |