亀山地域のあゆみ

第1節 古代から中世へ 第2節 近  世 第3節  亀山の発展と太田川
第4節 交通・運輸 第5節 明治から現代へ 第6節 産  業
第7節 村方騒動 第8節 地域社会の変ぼう  第9節 年中行事
第10節 文化財    
(このあゆみは、昭和52年(1977))に発行された文献に基づいて取りまとめています)


第5節 明治から現代へ

1. 明治初期の行政    
2. 亀山村の誕生  (1)亀山村名の起り  (2)亀山の沿革  (3)村政と教育  (4)町村制の変革 
             (5)4ヵ町村の合併  (6)広島市と可部町合併  (7)合併協定書のあらまし 

1.明治初期の行政 
   明治維新は、まさに百事一新の機会であった。一時的には混乱を来したものの、その成果は徐々に上り、より強固なものに定着していった。
 それまで幕藩体制下にあった村落を、国の末端行政の基盤として確立するために、いち早く編成替えが行なわれた。
 明治5年、従来の庄屋、組頭の制度が廃され、代って戸長制がしかれた。
 同時に大区、小区制を実施した。高宮郡(後の安佐郡、現広島市)は第7大区となり、大区の中をさらに8小区に区分した。
 この内、可部町(現)の区域をみると
 第4小区  勝木・今井田・大毛寺・上四日市・下四日市
 第5小区  九品寺・水落・上中野・南原・綾ケ谷
 第6小区  上町屋・下町屋・大林・桐原
 第7小区  可部・下中野・中島・上原・玖となっている。 
 各小区に戸長役場を設けて戸長を置き、小区内の行政のすべてを行なった。戸長の下に「戸長副」 「小長」 「小長副」を置いた。
 明治維新から10年間は、地方行政の上でも新しい制度を示す法令が、十分消化されない内につぎつぎと出され、また、村役人の役職名、職分がしばしば改正せられた。
 明治9年、県令藤井勉三が戸長制度運用について、通達を出している。これによると
 「上意下達」の中間にあって、県治の挙不挙、人民の化不化に関するや実に浅少にあらざるなり。而して日夜親しく人民に接遇し、民間の状況を視察するのは基本分にして----」と以下累々とその乱れを指摘し、これが引き締めと運営に力をいたせ、と強調している。
 明治11年、郡区町村編成法が制定せられ、従来の大小区制は廃止せられ、新たに郡・村が置かれた。
 従来の第7大区は高宮郡に、第2大区は沼田郡と、藩政時代の郡名を復活したが、郡役所は沼田・高宮両郡を所轄することとなり、沼田郡南下安村に置かれた。
 郡の下に置かれた、「村」には戸長が置かれたが、弱小の村では2、3カ村で協議して1人の所もあった。
 この郡区町村編成法施行後、散発的に且つ部分的な町村合併が行われたが、これは極めて小規模のものであった。
 確実な資料に乏しいが、明治初期から10年代に行なわれた町村の名称変更、合併等の内可部地区の主なものは次の通りである。
 明治初期頃   今井田柳瀬村が村名変更によって今井田村に
 明治12年頃   九品寺村と水落村が合併して城村を設置
  同 12年頃   地租改正の際、上中野村・下中野村が合併して中野村を設置
  同 14年頃   上四日市村・下四日市村が合併して四日市村を設置
  同 15年6月  四日市村のうち 6反1畝9歩を 大毛寺村へ
     〃     大毛寺村のうち 3畝11歩を 四日市村へ
     〃        〃      3反13歩を 勝木村へ
 それぞれ併裂している。

2.亀山村の誕生
 明治維新は行政制度の上にかなりの変革をもたらしたが、村を中心とする地方組織の上では、おおむね藩政時代の村を単位とするものであった。
 前に述べたように、明治10年代に若干の町村の編入や合併が行なわれ、やや前進したものの、村そのものに大きな変動はなかった。

 明治22年(1889)4月、新しく市制・町村制が施行され、これを転機に従来の町や村の多くが合併し、或いは市の誕生により市城に入った。
 これは維新以後の20年にわたる期間に体験した行政経験を基にして実現したものである。
 市や・町や村の行政を市・町村長を執行者とし、住民代表である議員を選出し、議員によって構成された議会に市・町村の意思を決定させる、という今日の地方自治制度が、完全とまではいかないまでも確立された最初はこの時である。
 県下における明治5年(1872)の町村数は1,069であったが、明治22年の市制、町村制施行の際大合併、大編入を行ない、その結果1市16町449村と大幅に減少した。
 この時、四日市村、大毛寺村・今井田村・勝木村・綾ケ谷村の5力村が合併して「亀山村」を設置し、初代村長に松浦豊三郎が就任した。
 人口4,200人、高宮郡では深川村に次ぐ大村であった。
 亀山村は設置以来、昭和30年3月、町村合併促進法による可部・亀山・三入・大林の4か町村合併まで、60年の久しい間、他の町村との合併や境界変更をすることなく、一貫して共同の運命の下に、団結し前進してきた。
 この合併によって、四日市など5つの村は消滅した。現在、亀山地区にある四日市、大毛寺、今井田、勝木、綾ケ谷の大字は亀山村設置前の旧村名をそのまま踏襲して名づけたものである。
 大字「虹山」は従来、大字大毛寺の区域にあった地域であるが、この地域に県営住宅団地が開発されたため、昭和46年分離して大字「虹山」となったもので、最も新しいものである。

(1) 亀山村名の起り
 明治22年合併した町村ではそれぞれ、新町村名を付けることについて議論が多く出た。多くは旧町村名の一字づつをとるとか、歴史上の背景を参考にするとか、論説の中から探し出すなどして付けた。しかし村によつては議論百出で、難行したところも相当あった。
福王寺山上にある金亀池 亀山村では、5力村の合併ということもあり、その上村の中央に霊峰福王寺山(501m)が大盤右の如く聳え立っている。福王寺山は頂上に弘法大師の伝説を秘めた金亀池があるところから、古来「金亀山」の別名をもつ信仰の山であった。
 頂上に、弘法大師の開基、と伝えられる名刹「福王寺」があって、西の高野山として四季を通じて参拝者で賑わった。
 このような歴史的背景を拠り所にして、由緒ある金亀山の「金」を外して亀山(かめやま)と称することにしたのである。
 また「鶴は千年、亀は万年」という諺のように、古来亀は長生きを表現する縁起よき名として庶民にうけていることもあって、村名決定には何等の異議もなく極めてスムーズに決定した、と古老は伝えている。
 大日本地名辞書にも「福王寺、亀山村大字綾ケ谷に在り、金亀山と号す。近年山下の諸村合して、亀山と名付くるは是が為なり」とあり、又同村沿革誌にも「村内に福王寺の古刹あり。山号を金亀山と号するより、之によって亀山村と称せしなり」とまとめている。 

(2) 亀山の沿革
 
 位置
 東は可部町の内大字中野・城・下町屋・上町屋・南原に、西は安佐町飯室に、南は太田川を距てて安佐町日浦、佐東町八木に対し、北は堂床山を境して安佐町鈴張及び山県郡千代田町本地に対す。
  地勢
 域内中央部に福王寺山、螺山、神宮寺山があり、周囲又はそれに近く堂床山、火の見山、須賀蔵山が聳え、山間小谷を形づくり、そこに転々として人家が集落している。
 域内を行森川、大毛寺川、灰川が南流して太田川に注ぐ。小南原は東綾ケ谷を南東に流れ、南原川に合流し、根の谷川に注いでいる。
 大字四日市、大毛寺、虹山、大字勝木の内通称表勝木一帯はおおむね平坦、日当りよく土質も良好であるが、今井田、勝木、綾ケ谷は河岸部、又は山間部にして日当り、土質とも前者に対してやや劣る。面積32.40㎢で、領域は他村に比べて広い方である。
 
 気候
 亀山の気候は明確に瀬戸内気候の影響を受けているといえ正徳頃の綾ケ谷村るが、これをさらに区分すると山間部と平野部に分けることができる。
 平均気温は15・2℃ 県平均13・9℃をわずかに上回っており、綾ケ谷、勝木の一部を除いて雪の積ることは少ない。
 初霜をみるのは、11月初旬頃である。降雨量は比較的少ない方で、平均すると最も少ないのは2月の60ミリである。
 河川には恵まれているため干ばつの被害を受けることは少ないが反面、河川改修の未了の地域が多く、これらは多量の降雨に見舞われると、一転して水害の危険にさらされる。
 特に近年山林の宅地化、伐採後の植林の不十分など、主として人為的な原因から、洪水による被害を受けることがしばしばである。
 春から秋にかけて太田川沿いに南方から吹く風をマジといい、これが福王寺山に当って、右は根の谷川と南原川沿いの峡谷に入る。
 左方は、勝木、綾ケ谷筋の峡谷へ吹き抜ける。
 この風(マジ)はかって太田川舟が盛んに上下した頃、広島から上りの舟は、マジが吹く午後の時刻を見計らい、帆を上げてマジの力を利用して上航した。
 
 人情
 総じて人情こまやかで、近隣周辺との連帯意識が強い。吉凶禍福、農繁期や病気等には一族一家を挙げて応援したり、されたり相互に緊密に協力し合う。
 平野部においては、開放的で快活、比較的計算高い。これは商業地可部に近いため、この影響を受けたためであろう。
 しかし近年土地開発が急速に進み”新人口”の流入が激しい地域では、生活の歴史が浅いこともあって、在来者同士の間に見られるような連帯感は乏しい。これは一時的現象であって、年月の経過に比例して、融和と相互協力の新しい型の共同体が生まれてくることが予想される。

(3) 村政と教育
 
亀山村は明治22年合併以来、全村民が一体となって、旧来の地域的偏見や、地理的自然条件を克服するために、限りない苦難を経験してきた。
 純農村的性格をもつ亀山村は、地域が広大である上、交通の便極めて悪く、諸施設の維持開発には歴代の村政担当者が言語に絶する苦心をした。
 特に消防施設、義務教育施設を整え、これを維持向上さすために費やした努力は、並大抵のものではなかった。村政の歴史は、困難な教育の歴史に集約されていた、といってよい。
 この典型的な姿は、村内を東・西2区に区分していることである。
 亀山村では、立村以来村内小学校教育に関する費用支弁について村内を東・西に区分して運営している。東区は大毛寺・四日市・今井田・綾ケ谷を区域とする虹山・亀北・綾西の3小学校。西区は大字勝木の区域で亀西・川手の2小学校を擁し、それぞれ地区内の住民の負担によって経営した。
 これを明治44年度の予算の歳出面からみてみると、西区が2,637円26銭8厘、東区が4,117円2銭6厘(この内臨時費として虹山小学校舎建築費1,753円73銭)となっている。負担割合は、西区がはるかに高く、東区よりも1・6倍近い負担増となっている。
 村議会における予算審議においても、論戦は常に教育費に重点がおかれ、東・西両区議員のかけ引、暗躍はすさまじいものであった、という。
 この二本立制度は、明確な記録は見当らないが、立村以来、昭和5・6年頃まで続いている。
 「亀山村長や村議会は、教育費の問題で年中頭をかかえていた」というのは、村政を知るものの常識であった。
 この状態を、大正元年(1912)の安佐郡報の中から、亀山村とほぼ同一人口をもつ安村、伴村と比較してみると、次のようになる。
安佐郡内類似町村の教育費比較表
(大正元年分予算・安佐郡報に依る)
区  分 安  村 伴  村 亀山村
人    口 4,059人 4,617人 4,440人
戸    数 864戸 898戸 815戸
町村税収入 12,590円809 9,601円765 7,986円130
町村費総額 16,773円 11,525円 10,304円
役  場  費 1,484円 1,603円 841円
土  木  費 10,525円 4,684円 -- 
教  育  費 3,122円 3,511円 3,570円
就 学 児 童 774人 876人 766人
 他の経費と教育費、就学児童との関係等からみて、亀山村の負担した教育費ははるかに大きいことがわかる。と同時に土木費はゼロになっていることに注目しなければならない。これは乏しい財源の中で、教育費に土木費が圧迫されていることを示している。
 つまり義務教育費が土木費にしわ寄せされたのである。
 市制・町村制の施行によって住民自治による行政運営、といってもそれはあくまで「国家の力を強くするため」という絶対主義的な国家思想が盛り込まれ、中央政府の出先機関のような性格をもったものであった。
 町村内に居住するものを住民とし、その内地租又は直接国税2円以上納めるものを公民として政治に参与することが許された。
 執行機関たる町村長や補助者である助役等の任命、村会議決の歳入歳出予算の知事承認等、本来の自治にはほど遠いものであった。
 地方団体や地方住民の自主性を拘束し、財産を有するものの特権を認め、一般住民の政治への参加は極度に制限されていた。
 大正14年に衆議院議員選挙に普通選挙制が採用されたのに対応して、翌15年に制度的に改正され画期的前進をみた。
  ・従来の財産所有者にのみ政治的特権を認めていた、等級選挙制を撤廃した。
  ・公民の資格の範囲を拡げ、多少とも町村税を納めるものすべてをもって公民の資格とした。
  ・町村長の選任方法を完全な町村会選挙制とし、町村の自治に対して国の監督権を緩和した。
 これによって亀山村では、大正13年から15年までに公民は550人から1,040人と2倍近く増加した。このため村内の政治担当者の政治的基盤は次第に高くなり、財産的優位者だけでなく、広く政治的見識と人望をもつものが要求されてきた。
 しかしそれでもなお、住民参与という基本理念には程遠いものであった。
 明治22年合併によって成立した亀山村政の状況をみると、町村長は一般公民の選挙収入役、書記等選任のための議会招集通知書ではなく、村会で選挙し、知事の認可を受けた者が就任した。こうして初代村長に松浦豊三郎が就任し、昭和30年3月、合併によって亀山村が消滅するまで66年間に9人、助役も同様9人が就任した。町村長9人のうち、宮本喜三郎、佐久間嘉吉、友滝竜一、武久十郎、竹本重太郎らはいずれも村長就任前に助役を1期又は2期経験している。友滝竜一、竹本重太郎は、助役就任前、村収入役を2期つとめている。又、荒川長太郎のように明治38年10月から昭和2年まで22年間一貫して助役の職にあった者もある。
 村政の上で三役期間を合わせて、もっとも長期間在職したのは佐久間嘉吉の助役2期・村長7期の35年を筆頭に、宮本喜三郎・荒川亀太郎・竹本重太郎らがいずれも20数年間就任し、村政につくしている。
 町村長に、助役経験者が多いのは、地方行政への精通とその人望が裏付けられてから選任された、ということができよう。
 また、昭和22年、戦後初の公選による村長に当選した吉岡吾策は厳島町長、三次町長・尾道市助役等村外の各地で自治行政を経験しており、ベテラン大物村長として期待された。戦後処理の困難な時期に村政を担当したものの、任期半ばの翌々年7月、老令を理由に田部倉太郎にその席を譲った。
 初期村政においては、助役・収入役・書記の任命も村長の自由裁量にならず、村長の推せんによって村会で選任した。
 議員も村税の納入額の多少に応じて定員を定め、公民中より選挙で選ぶ。選挙人は町村税の納入額の多少により、1級と2級にわかれ、それぞれ定員の半数を選び、任期6年とし、3年毎に半数を選ぶ、という複雑なし組みであった。大正13年の制度改正で廃止した。


(4) 町村制の変革
 明治以来官治的色彩が濃厚であった地方自治は、太平洋戦争の終結を機として、米軍の占領中ながら新憲法の制定を中心とする民主的諸改革と共に、地方政治にも画期的な改革を断行した。
 その第一は昭和21年の改正であった。これは明治以来しばしば行われた一連の改正と根本的にその性質を異にするものであった。文字通り”官治的自治”からの脱皮であった。
 これによって婦人参政権を含む選挙権の拡張、市町村長の直接的選挙が実現をみたばかりでなく、長その他の解職の請求権、議会解散の請求権等も市町村住民のものとなった。
 昭和22年には地方自治法が、23年には地方財政法と地方自治に関する一連の法律が制定せられ、これらによって地方分権主義が強化され、まったく新しい型の地方制度の基本的性格が規定されたのである。
 以来、現実と制度の調和を図るために幾多の補足的改正がなされ、その結果地方自治団体の適正規模の問題が台頭するに至った。

(5) 4カ町村の合併
 
昭和28年10月、町村自治の強化と近代化を図ることを目的として町村合併促進法が施行された。
 明治22年施行の市制・町村制も当時としては、日本のれい明期を画するものであったが、戦後の地方自治法・地方財政法、さらにつづく町村合併促進法の施行は、地方自治制度の根本を強化するものとして議論されるに至った。
 この法律制定のねらいは、町村自治の民主化を強化促進し、合理的能率的運営によって住民福祉を増進し、近代化を推し進めることにあったことはいうまでもない。
 この法律による町村合併の目安は、合併後の地方団体の人口を最低8,000人を基準とし、出来得る限りその規模を拡大する、ことであった。
 これによって全国、各県において合併問題が急速に盛り上った。
 ”合併のバスに乗りおくれるな”と急いで合併するものや”合併はいつでもできる”と慎重論に傾くもの、あるいは”賛成・反対”の両派が争い、ついに村を二分する騒ぎに発展したところもある。
 安佐郡下でも、地方事務所を中心に、それぞれのブロック毎に合併研究会や、準備委員会等をもって研究討議が盛んに行なわれた。
 昭和29年5月、安佐地方事務所が示した郡内の町村合併「案」のうち、亀山村は、可部町、三入村、大林村の4ヵ町村との合併であった。当時この4ヵ町村を”可部ブロック”と称した。
 この頃、可部町(町長諏訪主計)では、同町を中心に亀山、三入、大林、日浦、深川、落合、狩小川、八木の1町8ヵ村・人口30,299人による市制実現の構想を明らかにし、関係町村の意向をただした。
 しかし、これは結局可部、亀山、三入、大林の町村が前向きの意思表示をしたに止まり、他の各村は現段階では同調し難い、旨の意思表示をしたため、具体化のためのテーブルに着くことなく不発に終った。
 こうして合併問題は降り出しにもどり、可部ブロック4ヵ町村の合併実現に向って協議が進められた。
 その間、大林村を除く可部、亀山、三入3ヵ町村の合併案、可部町を除く亀山、三入、大林の3ヵ村で高宮町(仮称)設置、さらには高田郡上根村を加えて1町とする、等々諸案が台頭し、そして消えた。
  これらはいずれも現状と将来に難点があり、結局当初の計画によって4ヵ町村の合併を協議した。これは、
 「関係4ヵ町村(可部町、亀山村、三入村、大林村)は安佐郡の中央部に位し、可部町を中心として交通・文化・産業・経済・教育等の自然的環境が密接不離の関係にあり、この一連の地域をして行政の一元化による、完全自治理想郷の実現を期せんとするものである。」
 「即ち文化或は産業経済の発展を観光施設の充実、並びに道路網の整備拡充、教育施設の整備、農林産業の発展及び商工業の振興等あらゆる資源の活用を図って文化的な理想郷の実現を期すため、逐次関係施設の整備を行なうものである。」
 以上の基本方針にしたがい、合併建設計画が作製され、関係4ヵ町村の合意が出来、各町村の議会の議決を経て、昭和30年3月31日合併して新たに「可部町」を設置した。
 合併前の亀山村の執行部の中枢には村長田部倉太郎・助役部谷高二・収入役高山忠夫・ほか書記・技手・雇等16名であった。
 合併後の新可部町初代町長に荒川竜雄(三入村長)助役に田部倉太郎(亀山村長)と細川求己(大林村長)の2人が就任した。
 部谷高二は本庁の経済課長に、高山忠夫は亀山支所長に、その他旧村役場の全職員は、新町へ身分を引継ぎ、それぞれ配置された。
 一方議会議員、教育委員会の選挙による委員は、それぞれ可部町設置の日から1ヵ年任期を延長した。
 4ヵ町村の合併によって誕生した可部町は、面積91,74㎢、人工17,946人を擁する郡内第一の町となった。
 合併後、行政の中心である役場は旧可部町役場跡を使用し、亀山、三入、大林の旧村役場跡に支所を置き、戸籍・収税・印鑑証明など住民の日常生活に直結する事務を処理した。
 ついで新町役場を大字中野318番地に定め、庁舎建築工事に着手、昭和32年2月新庁舎完成と共にここに移転した。
 初代町長荒川竜雄が2期8ヵ年、ついで山田保が昭和38年4月30日、町長選挙に当選した。山田は2期目の昭和45年7月任期半ばに辞任。このため同年8月30日行なわれた町長選挙に藤井脩策が当選、昭和47年3月31日、広島市と合併するまで就任した。

(6) 広島市と可部町合併
 
可部町(旧)は国道54号線の開通、国鉄可部線の山県郡への延長、電話の普及など通信手段の発達、自動車の急速な発達などによって、地域住民の日常生活圏は従来の市町の区域を越えて拡大されるに至った。
 同時に住民の生活水準は高まり、行政への要求は高度化し、且つ複雑化してきた。このような住民の行政需用を満たすためには、発展方向を同じくする市町が、行政区域の合理化を図り、広域的視野に立って、統一ある合理的計画を効果的に行うことが第一であるという議論が台頭するに至った。
 このような情勢下にあって、広島市は、市の将来への発展の基本計画を国際平和文化都市および中枢管理都市の建設におき、これを基本として市民生活優先の住みよい都市づくりの計画をたてた。
 この計画の中で、「広域合併、西部開発事業、段原土地区画整理事業」の3つを(昭和47年度~昭和55年度)重点三大事業として推進することを定めたのである。この中の「広域合併」を当面の課題としてその第一に掲げ、これが実現に最大限の力を注ぐということをきめた。
 これに基づいて、昭和45年6月、広島市長から「広島市と合併を考えてほしい」との申し入れを受けた。
 これを契機として町議会内に「広域行政調査特別委員会」を設置して開所式風景検討をはじめた。
 翌、昭和46年9月町議会定例会において町長(藤井脩策)から「住民の理解が得られるなら、昭和47年を目標に広島市と合併したい」との意思表示があった。
 ついで同年11月従来あった広域行政調査特別委員会を「広域合併調査特別委員会」に発展させ、さらに前向きに取り組んだ。
 その間広島市との間で、非公式合併研究協議会を開催し、意見の交換、研究を進める一方、区域内住民に対して説明会や意見をきく会など住民との対話をもち、各種団体等との研究会合をもった。
 かくして、合併への準備はスケジュールに従って進行し、昭和47年3月4日、町議会臨時会で
 「可部町を廃しその区域を広島市に編入する]ことを議決し、さらに合併に必要な協定事項等一切の議決を終えた。
 つづいて知事への申請、県議会の議決、自治大臣告示等法定の順序を経て、昭和47年4月1日、広島市に編入し今日に及んだのである。
 この合併によって可部町は名実共に、広島市の副都心及び広島都市圏の北の拠点として位置づけられることとなった。

(7) 合併協定書のあらまし
 
広島市と可部町の合併協定書をみると、合併形式は「可部町を廃して広島市に編入する」となっており、いわゆる編入合併である。
 期日はさきに記したように昭和47年4月1日、旧町の議員は合併と同時にその資格を喪失し、改めて50日以内に町を選挙区とする市議会議員の増員選挙を行う、とした。
 農業委員会は町を区域に「広島市可部農業委員会」を設置することとした。町職員については、常勤特別職と教育長は市町・町長が別に協議して決定し、一般職員はすべて市職員として引きつぎ、身分は市職員と均衡を失しないように公正に取り扱う。行政機関は住民サービスの低下をきたさないように措置するとの立場から、当分の間町区域を管轄する支所を置き、末端の連絡組織や補助機関などは原則として、現行のまま引き継ぎ、合併後速やかに市の制度に一本化する。消防署は現行のまま引き継ぎ、合併後市の消防組織全体を通じて検討する。消防団は統合して分団とする。
 水道事業は市が引き継ぎ、料金や給水条件は市の水道事業全体を通じて検討する。使用料・手数料は原則として市の制度に統一するが、公的施設の使用料に限り、一応引き継ぎ早急に調整をはかることとし、分担金や負担金はすべて市の制度に統一する。
 有線放送は市が引き継ぐが、もし他に引受団体があれば、その団体に譲渡することをさまたげない。
 以上が協定書の内容のあらましであるが、別に附属協定書をもって「可部地区審議会」の委員に旧可部町議会議員であったものをもって組織する。旧可部町の長・助役・収入役・水道事業管理者・又は教育長であった者で合併後の広島市の一般職員にならなかった者は参与とするほか、一般職職員の取り扱い、行政機関の設置及び組織・消防団員の取り扱い、各種福祉制度の取り扱い等、関係職員の処置をはじめ住民生活に急激な変化を生じないような配慮が払われた。

  亀山地域のあゆみは、次の文献に基づいて取りまとめました。
資 料 名 明治7年創立 そして百年
開学百周年記念誌 かめやま
発 行 者 小学校開学百周年記念事業実行委員会 
発行年月 昭和52年3月
 

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