亀山地域のあゆみ

第1節 古代から中世へ 第2節 近  世 第3節  亀山の発展と太田川
第4節 交通・運輸 第5節 明治から現代へ 第6節 産  業
第7節 村方騒動 第8節 地域社会の変ぼう  第9節 年中行事
第10節 文化財    
(このあゆみは、昭和52年(1977))に発行された文献に基づいて取りまとめています)


第4節 交通・運輸

1. 軽便--電車--国鉄 2. 亀山の駅   
3.道路交通    (1)昔の道と今の道   (2)峠   (3)幕の内峠   (4)トンネル開通 
4. 近代の交通用具      

1. 軽便--電車--国鉄へ
 「可部の軽便」は明治44年7月、横川--可部間で営業を開始して以来「可部の軽便」の愛称で親しまれ、地方交通の担い手として大きな役割りを果した。
 大正15年5月、広島電気株式会社の系列下に「広浜鉄道株式会社」を設立し、これの経営に移った可部の軽便は、昭和5年1月、全線電化工事を完成し、電車を登場させたため、可部軽便は姿を消した。
 この電車は、さらに可部を基点として太田川に沿う峡谷を北進し中国山地を横断して、山陰浜田市まで延長計画をもっていた。
 昭和11年9月、鉄道省が広浜鉄道を買収し横川電車区が設置され、ここに始めて国有鉄道として経営されることになつた。
 国鉄の経営に移ったため、奥地への新線路延長は急速に延びるものと期待された。
 このようにして国鉄時代に入ると、新線路布設工事は着々進捗し、昭和11年10月には可部--安芸飯室間が開通した。
 当時すでに可部--加計間の上流全域にわたつて、鉄道新設工事の進展をみていたが、昭和12年日中戦争のぼつ発によってその影響をモロに受け工事は中止された。
 可部--安芸飯室間が営業を開始した当時、すでに安芸飯室--加計間の路盤工事と鉄橋の基礎工事はほとんど完了し、駅舎、倉庫等の建築、レールの敷設に着手するばかりとなっていた。レールについては、一部区間ではすでに敷設完了の所もあったが、戦争の影響は深刻で一たん敷設したレールも軍需物資に転用のため、回収されるという悲運にあつた。
 しかし、戦争が終結すると再び建設工事が展開され、昭和21年8月、安芸飯室--布間が開通した。
 さらに昭和27年(1952)から、本格的延長工事に入り、同29年3月、布--加計間が開通し、さらに北進して昭和44年7月、山県郡戸河内町(駅)まで延長し営業を始めた。

2. 亀山の駅
  亀山の駅
 国鉄は可部駅からさらに北へ伸びて最初の駅は「安芸亀山」の一駅であつた。定期バスの運行しない太田川筋に設けられたこの駅は亀山地区内最初のものである。この駅は大字勝木のうち大野部落に設けられ地域住民の足としての役割りを果たした。
 「安芸亀山」の駅名については、さだかな記録はないが、当時亀山地区内には、他に駅が存在せず、亀山村唯一の駅であるため、亀山の村名を用い、地域の存在を明らかに示そうとしたもの、ということができよう。「安芸飯室」駅も又然りである。
 昭和30年には、国鉄の経営合理化の波を受けて”無人駅”となった。
  今井田駅
 
昭和31年11月、かねて地域の人たちが要望していた、今井田に駅が設置された。
 無人でもよい、とに角駅を設けてほしい、という地域住民の願望は根強く強力なものであった。熱烈な地域住民の声はやがて町当局を動かし、町と一体となって国鉄当局へ要望し、遂に実現をみたのである。国鉄当局は当初開通の人口、交通関係、隣駅との距離等を勘案し、経済性に合わない等の理由で難色を示して譲らなかった。
 しかし、結局は地域住民の熱意が実を結んだのである。用地並びに建設費用はすべて地元負担という原則があった。ところが幸いに今井田駅は鉄道用地のノリ部分があつて、これを地上げして利用することとした。総事業費42万5千円を要したが、この内3分の1を町が負担し、残り3分の2を最も受益度の高い今井田と安佐町筒瀬で負担した。
  河戸駅
 河戸駅の設置も今井田駅と時を同じうして実現をみた。河戸駅の設置については、戦後いちはやく要望されるに至ったものであるが昭和30年の4カ町村の合併を機に盛り上りをみた。
 この河戸駅設置については現在の可部線の起、終点を河戸まで延長する、というものであったが、これは実現をみるに至らなかった。
 駅の設置に要する負担割合は今井田駅と同様であるが、経費はすべて国鉄側がもつべきである、との一部意見もあったが、これを強調するときは設置の機会を逃し、悔を後世に残す結果となりかねない、との多数意見で実現をみたのである。
 建設費63万円(内町費20万円、地元43万円)を負担したが、この地元負担金の内には河戸部落以外に四日市、長井、荒下、柳瀬、下大毛寺の有志による寄付金の拠出があった。なおこれによっても土地代金の一部不足のため、吉岡吾策の所有する土地の無償提供があった。

 昭和37年町内小学校の統廃合問題が起り、中河内にあった川手小学校は、廃止されることになった。この時、児童の通学問題がしきりに議論されたが、国鉄利用によって--一部通学費も町費で補助--ということで解決、可部小学校に統合された。

3. 道路交通
(1) 昔の道と今の道
 
江戸時代から明治末期までの交通はまことに素朴なもので、村道は3歩道、5歩道、7歩道といって、極めて狭く、幹線以外はようやく人が歩いて通れる程度であった。3歩道というのは1間の3分、あるいは7分の意、すなわち1、8mの10分の3、10分の7の意であった。
 明治の末期から二輪車の利用が多くなり1間道、2間道、3間道というように、幹線道は次第に幅が広くなった。終戦後は急速に自動車が普及し、今日では4m以下で自動車の通れぬ道は、道としての価値が極めて低いものとなった。市街化区域内においては、家を建てるのに幅4mの道がないと、建築を許可されないようになった。
 
 都志見往還
 
明治初年までは可部町から西へ入る都志見往還があり、この道が亀山を東西に貫いていた。現在のほぼ191号線の元道(もとみち)である。
 可部町から西(上中野村・上・下四日市村・大毛寺村・勝木村のうち行森から坊字峠を越えて、山県郡都志見村庄原に通じるもので別名を”庄原往還”ともいった。
 明治維新後政府は中央集権的支配を強化し、同時に経済政策を近代化する目的をもって、交通の重要性を認め、全国各地の道路網の整備を積極的に手がけた。
 明治9年(1876)広島県令藤井勉三は、この政府の主旨をうけて、陰陽連絡路、広島--浜田線の実測にかかった。ついで藤井知事の後をうけて明治13年着任した県令千田貞暁は、宇品築港を計画し広島の近代化に貢献したが、同時に陰陽連絡道路の建設にも意欲をもやし、これが実現のために力を注いだ。
 この陰陽連絡道路は最初の計画では、古くからあった”石見街道”を軸にするものであった。これによると、可部から南原を経て可部峠を越し、山県郡本地村に抜けるいわゆる”可部峠越え”であった。
 古老の伝えるところによると「陰陽連絡道路の可部峠越えを知った鈴張村(現安佐町)の戸長や妙法寺住職を始め飯室村の住民たちが大毛寺、勝木等南部関係村民と共に、可部峠越えに強く反対し、これに代わるものとして、幕の内峠を越す道路の建設運動を強力に展開した。これが効を奏して幕の内峠は開通した」という。
 こうして陰陽連絡道は可部から幕の内峠を越え、飯室、鈴張、本地、中山、市木、中山、今市から浜田に達するものが決定した。
 島根県令境二郎と広島県令千田貞暁は明治15年12月、内務卿に対して、総工費52万2千816円4銭3厘、この内3分の1を国からの補助を要請する申請書を提出したのである。
 この工費をさらに内訳すると、全長を6区に分ち第一工区を可部--本地間とし、その工費6千154円44銭4厘をもって幅5、5m(3間)の幹線道路が明治22年秋全線の開通をみた。亀山地区内は明治19年に開通した。
 これが現在の国道191号線の母体となったものである。現在整備されているこの191号線は、昭和42年域内全線が開通をみた。
 県道可部--宇津線は昭和7年2月県道に昇格告示されたが、これが改良は遅々として進展をみず、近年ようやく舗装を終えたものの、幅員は旧態依然として中型車以上の離合に、支障を来している区域がほとんどの状態である。
(2) 峠
 
 坊字峠
 大字勝木上行森から火の見山山ろくを西方へ越え、安佐町飯室の内古市へ通ずる道を坊字峠という。
 幕の内峠が最初に開通したのは明治19年であるが、この道が出来てからも徒歩者による坊字峠の交通は盛んであった。
 幕の内峠を越えるには屈曲が多く、距離的には遠く時間を要したからである。
 坊字峠は、飯室村と勝木村を結ぶ要路の一つで幅2m(7尺)余の道幅。古来から重要な交通路であった。
 車の発達で現在は雑草が伸び放題に伸びて、道跡は山肌と区別がつかないまでにさびれた。
 坊字峠を越えて飯室側に下りると石橋がある。そこに「首切り観音」がある。昔某城の当主が刀の試し切りのために通行人を切った。そのため切られた人の霊を弔うために祭った、と伝える。もっともこの首切り観音にまつわる伝説の数は数種に及ぶ。
  植松峠
 綾ケ谷の大畑、現在の農協支所の上手から左折して上るとおよそ2キロで頂上にたどり着く。
 向う側の山を下ると、安佐町飯室の畑谷があり、川に出て川に沿うて上ると鈴張である。
 近年頂上近くまで小型トラックが入れるように整備され、附近の山から生ずる林産物を搬出している。
 頂上附近は道幅も狭く、わずかに1、2m。土砂と雑草で埋もり往時の面影はない。この道はかって石州商人が日本海でとれた塩魚を背にして通る道として知られていた。
 芸藩通誌によると、頂上近くに富樫五郎左衛門の居城跡と称する尾崎城跡がある、と記している。富樫氏がいつの時代、いかなる人物であったかはつまびらかでない。
  恵坂峠
 (逢坂峠、会坂峠と記した文書もある。この地方の人びとは、なまったエダカダオともいう。)
 文政2年(1819)上四日市村の書出帳に「当村より飯室村へ越す小坂を恵坂と申し、これも右社(注、下四日市村徳行寺境内にあり、村の産土神、惣社大明神)に依る名と申し伝え候」と記す。
 現在この峠は国道191号線を拡幅の際、およそ20mを掘り下げたため、ゆるやかな勾配となり、峠の面影はまったくない。
 可部側から進むと頂上近く右側に、小さな地蔵堂がある。堂内に大小2体の石地蔵が収められている。大きい方の1体は古来からあったもの、小さい方は可部町品窮寺からもらい受けたと伝える。
 この恵坂峠「人間}を元へもどす峠」として知られる。悪事を行なった人間が、この峠を夜一人で通ると、自分の悪事を後悔して真人間に立ちかえる。酒に酔うて峠にさしかかると、とたんに酔がさめる。怒っている人は落ち着きを取り戻す不思議がある、と古老は伝えている。
 恵坂峠は、今日では「峠」としてのイメージには程遠くなっているが、明治19年3間幅(5、5m)の県道が開通するまでは、曲折の多い急坂であつた。
 頂上附近には茶園があり、追いはぎが出たり、化け猫が出る、というので夜の女子供の一人通行はほとんどなかった。
小南原うじか峠入口の道しるべ  うじか峠
 綾ケ谷は中央南北に堂床山脈が福王寺山に連なり、これを中心に東綾ケ谷と西綾ケ谷に区分される。
 この東・西両綾ケ谷を結ぶ峠が二つある。「うじか峠」はその一つである。東は東綾ケ谷(小南原)から入り、西綾ケ谷に通じる。道幅5尺(1m50cm)、東綾ケ谷は従来地勢的には南原村に接し、人情、風俗、日常交際も深い関係があるが、同時に古来、綾ケ谷村と称する一村を形成していたため、西綾ケ谷との交流も深かった。
 道はけはしく、雑草が道をふさぎ通行する者は稀である。東側峠の入り口に=右ハ大畑 イムロ スズハリ道=と自然石に記した道しるべが立ち、往時の風情をわずかに残している。東、西両綾ケ谷を結ぶ最も近い道であり、西綾ケ谷から可部へ出るには、多くこの道を利用した。




  鹿田
 綾ケ谷村は「表百軒・裏百軒」と称し、戸数もおよそ二分していた。
 うじか峠と同様、東・西両綾ケ谷を結ぶ。小南原の内滑の下から小南原川の峡谷に沿うて上り、途中から左側に折れて常床山の山ろくのやや低目の所を超える。
 頂上に近い小南原側は6m幅の舗装、拡張工事が進行中で、完成の暁は大きな役割りを果すことと期待されている。
 鹿田峠と名付けた理由はつまびらかでない。古老の一人は「むかし峠の所、西綾ケ谷側に鹿田という家があった。多分そこからきたものであろう」と。
  神宮寺峠
 螺山と神宮寺山が接する所にある。今井田から大毛寺へ越すには、この「神宮寺峠」が最短距離にあった。
 太田川に沿うて交通するとすれば、大きく柳瀬を迂回しなければならず、加えて川岸一帯には岩石が突出して、道らしいものがなかった。距離も遠い、ということから、太田川沿いの道は開通がおくれたのである。神宮寺峠は、太田川の”筒瀬渡し”と深い関係がある。
 古来筒瀬部落(現安佐町)の人びとは、可部側の大毛寺、四日市、今井田に相当の農地をもちこれを耕作していた。この峠は”農道”的な一面を備えていたということになる。
 峠の南側にある山に「神宮寺城」があった。寺への連絡道でもあったと思われる。この道は近年まで相当の通行人があって利用した。現在東側は団地の開発によって新興住宅が建ち、往時の道はつぶれてない。
  大畑道路
 亀山村の表勝木から綾ケ谷西部大畑へ達する里道が完成したのは、明治27年である。
 これより先、亀山村では、すでに一部改修を終っていたが、まだ相当の工事量が残っていた。この残り工事は役場から直接、綾ケ谷西部、表勝木の住民に対して実施するようにすすめている。
 このため、大畑、表勝木の区長を筆頭に、11人が名を連ねて明治27年5月、工事請負定約証を村あてに提出している。
 1、仕様書の通り工事を実施し、いかなる事が起きようとも割増金の請求等は一切しない。
 1、5月5日着工、向う25日間に完成させる。
 1、請負金は、完成後見取済の際に支払われたいこと。
 1、請負金18円90銭也。
 仕様書が見当らないが、とも角この道は関係住民の手によって完工したことが明らかである。
 こうして大畑への道は”人から車の通る道”に拡張されたが、道幅はせいぜい2m前後のものであった。
 昭和初年頃、勝木からおよそ500m、その後大畑植松まで営林署の手によって拡幅された。
 昭和17年、中綾ケ谷から滑の上に通する「鹿田峠」のおよそ2kmが3m巾の、林道として昭和18~19年へかけて農協出張所から谷和川に沿うて谷和部落終点(中野宅)までがそれぞれ完成した。
 以来順次拡幅され、現在幅員5~6mとなり、昭和30年4月から広島交通㈱による定期バスの乗り入れが実現し、陸の孤島的位置にあったこの地域の交通は目ざましい発展をみた。

(3) 幕の内峠
 明治の初めまでは、出雲路(可部から根の谷峠を越えて三次を経て出雲へ)と、石見路(可部から南原を経て可部峠を越え、本地から大朝-浜田へ)はともによく発達し、脇街道として重要な役割りをになっていたが、幕の内峠はようやく人が通る程の山道に過ぎなかった。山県地方や飯室、鈴張、小河内あたりの人びとは、坊地峠か植松峠を越えて可部へ出た。
 幕の内峠はちょうど、芸北と芸南にふすまを立てた形になって、完全にしや断していた。
 明治に入って、文化的施策は大都市を中心に地方へも徐々に及んでいった。しかしこの地方に関する限り、交通上の障害は、この峠によって文化の浸透に強い影響を受けていた。
 これについて奥地の識者たちは、幕の内の峠を指して、「この峠があることによって、われわれは10年、20年おくれた」と指摘し、開発の必要性を強く強調した。
 明治8年飯室村の戸長であった桑原金七郎は、「われわれは孤立してはならない」ということから、幕の内峠へ道路を通すことを計画した。しかしこれは飯室村だけの問題ではなく、又飯室村だけの力でどうにもなるものではなかった。
 桑原は当時の勝木村(現可部町)に呼びかけ、この難所の開発は両村民の利益につながるのみならず、奥地と南部の連帯交流を促し、相互に好結果をもたらす、ということを説いて回った。
 高さ300m(飯室側)にも及ぶ高地に幹線道路をつくることは当時としては、理想論としては理解しても現実には至難な業であった。飯室村においては、新道開設に農地を犠牲にされる農民が竹ヤリをもって反対運動を起したほど、最初から困難なものであった。
 勝木村においても、飯室村側の熱意に呼応して、全面協力の態度を示し、両村民総出(勝木村では主に行森)で作業にかかった。
 その努力は報いられ、4年後の明治12年(1879)には全長1里余(4,100m)の新道が完成した。
 この時、行森側で住民の先頭に立ったのは、戸長田部善太郎であった。
 これが、近代交通史の上で最初に登場する「幕の内峠」である。
 道がなかったところへ初めて道が出来たのである。この新道は幅2間半(4・5m)で、当時としては想像もつかないほどの広い道路であった。”お化け道路”とアダ名をつけられたり、”半分はくさってしまう”と酷評するものもあった、という。
 今日のように、一押すれば50人前の力を発揮するブルドーザのない時代のことである。石垣の石一つにも荷車か人の肩にかからねばならず、路肩づくりもすべて手掘り、手積みであった。
 こうして出来たのが、現在幕の内峠の上部を通っている屈曲の多い「旧、県道」と称する道路である。
  幕の内峠の自動車事故
幕の内峠自動車事故を報ずる中国新聞記事
 幕の内峠で起きた昭和28年の「バス転落事故」は幕の内峠に限らず、その被害の大きさ、その惨状の凄まじさにおいて、安佐郡内最大の交通事故として報道された。
 同年8月15日午後零時15分頃、70人の乗客を乗せた大型バスが、峠を越えて北へおよそ400mほどの所、第2の急カーブに差しかかった際、運転をあやまっておよそ40mの崖下に転落した。
 このため即死10名、重傷者38名、軽傷者21名を出すという大惨事になった。この日はちょうど「盆」の日に当り、墓参のため帰郷する乗客がほとんどであった。
 事故発生の報に可部署はもとより飯室、亀山、可部の消防団員、自動車会社職員ら200人余りが、国警県本部から応援にかけつけた機動部隊48人の応援を得て救出作業を行ない、死者は可部町の品窮寺に、負傷者は可部町内の小路、笹木医院、吉永病院に収容手当てを受けた。
 当時すでに幕の内トンネルの掘さく工事が進行中であったが、転落したバスは工事関係者の仮小屋の横に転落した。
幕の内自動車転落事故 トンネル開さく工事が、今少し早目に完成し、バスの運行が出来ておればこの事故は起きなかった。また当日「盆」のため作業人員の小屋は無人状態であったことは、連鎖事故を招かずにすんだ、とはこの事故を目撃した人の言葉である。
 ちなみに昭和24年以来、この事故が起きるまでの5カ年間に幕の内峠での交通事故は、転落したもの7件、その原因はいずれもカーブでのハンドルのきり損いであった。
 しかし幸いにしてこの7件の事故は、負傷者だけにとどまり死者はなかった。
 この幕の内峠のバス転落事故で、亀山村民2人が死に、6人が重傷を負うた。



(4) トンネル開通
 明治の初期、飯室村と勝木村の住民が中心になって新設し、もてはやされた幕の内道路ではあったが、時代の流れとともに、使い勝手の悪いものになり、交通上の難所として悪評を得るようになった。車のスピード化、大型化、加えて急速に増大する台数等悪条件が重なり、従来の道路をもってしては解決できないものになってきた。
 この問題を解決するには思いきって、山ろくにトンネルを通すことである、と判断された。昭和26年のことである。
 その頃、建設省は可部町三丁目から今井田、大野を経て宇津へ達する太田川沿いの県道を拡張することを計画していた。

 このことは結局、幕の内峠の現状を凍結することである。それでは将幕の内峠大畑川入口来の発展につながらない、ということで「幕の内トンネル」を強力に実現すべきである、との議論が台頭した。
 昭和26年には、当時の安佐郡下の5力町村(鈴張村、飯室村、小河内村、亀山村、可部町)によって「幕の内トンネル期成同盟会」が組織された。
 会長に飯室村長桑原精一・副会長に亀山村長田部倉太郎が就任した。この2人は、かつて明治初年祖父と養父が共に手を携えて完成させた幕の内の道路を、トンネルにつくり直すために、手を取り合って先頭に立つことになったのである。
 かくて昭和29年12月1日、1億5千百万円、1年5カ月の短日月で、幕の内トンネルは開通した。従来の幕の内道路は延長4,300m、カーブは飯室側が40、亀山側が20であったものが、トンネル開通によって2,300mに大幅な距離の短縮をみた。幅員も4mのものから7・5mに拡幅された。勾配も最高8%とゆるやかになり、直線ではないがゆるいカーブが4カ所のみ。これによって芸南・芸北間の障害は完全に除去された形になった。
 当時の中国新聞は、開通式の様子を次のように記している。
 =幕の内トンネルは広島県下初の有料道路。通行料は飯室側で徴収した。乗用車 80円、トラック 100円、バス120円と=
 15年後(昭和44年)に融資金全額を償還したため、以後無料となった。トンネル開通の際の第1番車は、飯室村農協有所トラック。運転手岡野豊、助手細川雪男であった。

4. 近代の交通用具
   人力車と自転車は、近代乗り物の中の双へきというべきものであった。人力車は明治2年(1889)頃東京でつくられ、同4年頃には広島地方へ入っている。
 自転車についても明治初年東京で、やがて地方へ普及していったが、人力車の方が自転車に比べてそのテンポは早かったようである。
 亀山地方へいつ入ったか、記録がないが自転車の修理、販売の看板を最初に掲げたのは、明治30年頃可部町一丁目木谷賢一が最初といわれている。
 その頃の自転車は車体も車輪もすべて木製で、車輪には金の輪をはめていた。
 自転車屋は、人の形をうつす写真屋と共に時代の先端をいくハイカラ商売として注目を浴びたものである。しかし利用者が少なく営業としては安定したものではなかった。
 深川村史によると「自転車が初めて本村に入りしは明治40年頃にして、当時は価格も高価にして求め難きものなりし。しかして又之に乗る練習又極めて六ケ敷。折角購入するも乗れず返却する等の滑稽も演ぜられしが----」と当時の状態を記している。
 明治末期から大正期へかけて、自転車の普及は目ざましく、このため人力車は漸減していく。こうした傾向は乗用・荷用馬車についてもいえることで、可部に軽便の登場、自動車が普及していく結果である。このような交通機関の変遷の状態を知るために、台数表を掲げておく。
人力車・自動車・自転車登録台数表(現勢調査簿) 
 年 別 可 部 町 中 原 村 亀 山 村
人力車 自動車 自転車 人力車 自動車 自転車 人力車 自動車 自転車
明治40年 16 -- 58 17 -- 5 2 -- 3
〃 42年 27 -- 62 15 -- 18 2 -- 4
〃 44年 29 -- 116 17 -- 28 3 -- 14
大正2年 22 -- 116 17 -- 27 3 -- 21
〃  4年 24 -- 97 15 -- 37 2 -- 52
〃  6年 24 -- 109 10 -- 38 2 -- 69
〃  8年 17 -- 140 8 -- 47 1 -- 104
〃 10年 11 3 281 7 -- 92 -- -- 171
〃 12年 9 7 280 10 -- 158 -- -- 256
〃 14年 5 8 296 6 -- 178 -- -- 306
昭和2年 4 13 360 5 -- 215 -- -- 358
〃  4年  4 13  337   253  --  --  388
〃  6年 1 2 255 -- -- 369
〃  8年 2 267 -- 2 365
〃 10年 5 259 -- 2 395
(昭和6、8、10年の可部町分空欄は資料不足による)

  亀山地域のあゆみは、次の文献に基づいて取りまとめました。
資 料 名 明治7年創立 そして百年
開学百周年記念誌 かめやま
発 行 者 小学校開学百周年記念事業実行委員会 
発行年月 昭和52年3月
 

戻る


(財)広島市未来都市創造財団 広島市亀山公民館 〒731-0232 広島市安佐北区亀山南三丁目16-16 TEL・FAX(082)815-1830