亀山地域のあゆみ

第1節 古代から中世へ 第2節 近  世 第3節  亀山の発展と太田川
第4節 交通・運輸 第5節 明治から現代へ 第6節 産  業
第7節 村方騒動 第8節 地域社会の変ぼう  第9節 年中行事
第10節 文化財    
(このあゆみは、昭和52年(1977))に発行された文献に基づいて取りまとめています)


第10節 文 化 財

1. 古城跡  
2. 古墳等    (1)一字一石経  (2)可部古墳群 
3. 福王寺   4. 名勝・故木  

1. 古 城 跡 
 中世の頃、熊谷氏が三入庄の地頭職として入部して以来、この地方は熊谷氏とのかかわりの中で、時に争い、時に和し、権謀術策をくり返しながら発展した。
 熊谷氏の力は強力であった。このため熊谷氏の所領であった三入庄(大林、上、下町屋、桐原、上原、南原)の状況は比較的明らかにされているが、反面亀山地域を中心とする可部庄の状況は不明確なものが多い。
 したがって本節にのべる古城跡も、同様の理由から不明のものが多い。わずかに「陰徳太平記」 「芸藩通志」 「万(よろず)書出帳」などの中から断片的に知るのみである。然しこれらの記録、文書も江戸時代中期以後に書かれたもので、中世とははるかに時代のへだたりがある。
 然も中世の城は、山の一部をけずり取り、平らにした小さなトリデのようなものが大部分であり、永い年月の間に消滅し、わずかに平地や堀の跡、井戸跡と思われる部分を、雑木や草むらの中から見出す程度であって、「城」と云う言葉からうける現代の我々のイメージとは大分違うものであった。 
    舟 山 城 跡
 一見したところ、誰しも古墳ではないかと疑う。それも前方後円墳とみられやすい。
 山の周囲にはホリがあったと古老は伝えるが、現在は明瞭でない。しかし、山に登ると曲輪、犬走りなどと思われる跡があり、城跡であることは、一目瞭然である
 江戸時代の文書によると、山中佐渡守成祐の居城であった。成祐はその息子新四郎と共に熊谷氏に滅ぼされ、子孫断絶した。しかし文書がないため、このことはいつのことか不明である、と記されている。
 この成祐は、かなり智勇にすぐれた人のようであるが、当時は、「勇の熊谷」といわれた熊谷信直が三入庄に居り、高松城に拠って盛んに附近を経倫した頃である。陰徳大平記によると、
 ① 成祐は、長子新四郎と共に、熊谷信直の勇武を恐れ、山中家の将来をおもんばかって、信直が夜間、飼馬    に餌を与える時をねらって不意討ちしようとしたが果たさなかった。
    熊谷信直はこのことを知りながら知らないふりをみせ、三入の境にとりでを築き、客として招き謀殺した。
 ② 寺山の藤ノ棚と呼ばれる所に熊谷氏の別荘があり、ここへ成祐を呼んで酒宴中刺し殺した。
 ③ 山中氏は舟山城に拠り、熊谷氏と戦ったが利あらず、成祐、新四郎は共に切腹し果て(成祐兄弟が切腹した    と伝えられる地には、現在その子孫といわれる人によって、卒塔婆が立てられている。)
    末子十郎太郎義成は逃れて武田氏(銀山城主)の被護にあったが、後「代田」に潜み隠れたとも伝えられる。
等々諸説がある。
 船山は別に貴船山とも呼び、神武東征説と関連をもたせている。後次第にキフネ山のキの字がなくなり、フネヤマがフナヤマに転じたものとも言われる。
 江戸時代の記録には、長サ十七間・高サ十五間・横五間と記されている。
  行 定 城 跡
 今の虹山団地の中央附近にあった。造成される前は、一見高松山の頂上部に似た形をもつ山城跡であり、切り開かれた丘の頂上部はかなり広く、春の節句には子供連れで多くの人が上っていた。
 信元城とも呼ばれ、筒井勘右衛門が城主であった(国郡志)と記され、(通志では酒井勘右衛門)別記には行定内蔵助という者がいたとも記されている。現在も附近に行貞という地名が残っている。
 江戸時代の記録に、長サ拾間・高サ二拾間・横六間とある。
  神宮寺山城跡
 通志によると、今の茶臼山上にあって、小賀源六(別記に源七又は源内)の居城跡と記す。この城は太田川の屈折部を占め、その上太田川に面する一角は峻嶮であり、相当規模の城があったものと想像される。今も山頂近くに築城当時、切り開いたと見られる地形が残っており、又頂上近くに井戸跡が残り、石の蓋がおかれている。言い伝えによるとここに金の茶釜があったという。
  尾 首 城 跡
 可部方面から恵坂峠を越すと真正面に水越山があり、この東斜面は今住宅団地になっている。この辺りに尾首城があった。団地が造成される前は水越山から突出た丘陵のような地形をしていた。この城についての記録は少なく、江戸時代のものに「松浦甚五左衛門城主、退転相知不申候」と残されているだけである。
 この山は別名を「首取山」ともいう。
  尾 崎 城 跡
 芸藩通志にその名があり、大畑から安佐町飯室へ越す(植松峠)の北側にあったと推定される。城主富樫五良右衛門と伝えられているが、いつこの城を去ったか不明である。
  久 保 城
 尾首城のやや北に比定されている。安永6年(1777)の差出帳には、城主相知不申候とのみ記載され、通志によると山中佐渡守(舟山城主でもある)所守とあるのみで他には記録は見当らない。
 

2. 古 墳 等  
  (1)一字一石経
 平安時代、延暦寺の三世の座主円仁によって、唐から伝えられたといわれる経塚は、もともと仏教教典を経筒又は経箱に入れて地中に納め、末法の世まで経典を保存する事を目的としたといわれる。
 しかし、鎌倉、室町時代に入ると、極楽往生、現世利益の祈願、供養のためと変っていった。
 経塚にはその種類がいろいろあるが、1個の石に1字を書いた「一字一石経」と呼ばれるものがある。
 昭和41年発掘された螺山の一字一石経は、直径約130cm、深さ約70cmの円形の穴の中に、径2.0.~5.0cmの偏平な川原石が数百個土砂と混入して埋められていた。
 その多くは文字は遺存していないが、十数個は墨書された漢字は明らかに読むことが出来る。
 しかし、何分にもその内読める漢字は少なく、且つ経筒等もなく、納めた趣旨等を語るものもなく、何を写経したのか、又いつ項、何の目的で、誰が埋めたのか、わかっていない。

(2)可部古墳群
可部古墳群から出土した勾玉
 平なる土地と豊富な水、そして南からの太陽を受けることができる。この水稲耕作に欠かせない条件を「可部盆地」は備え、古くから開けていたようであるが、その具体的解明は進んでいない。
 縄文期の遺物として、大林の草田や南原から発見された右斧、或いは給人原二号墳に流入した土砂の中から発見された土器片等、わずかに知られているだけで、当時の状況はほとんどわからない。
 水稲耕作の始めとされる弥生式時代も遺跡遺物は数少い。前期では、亀山小学校に保管の石斧、三入小学校に保管の長頸壷がある。中期又は後期になると去年(1976)発見された三入丸子山の十数基にのぼる箱型石棺がまず代表的な例であり、その他、草田の壷型土器や包含層と思われる箇所があるが明瞭でない。
 現在残ってはいないが、江戸時代に両延神社境内で発見されたとする平形銅剣銅鉾は、興味をそそるものである。
 ついで古墳時代に入ると、前記のように水耕の絶好地であった可部盆地は、開発が急速に進んだらしく、当時の豪族を葬った墳丘すわち古墳が、福王寺南山麓に確認されただけでも80基に達し、その様子をしのばせている。これらの古墳のうち亀山地域にあるものは、原迫古墳群、青古墳群、給入原古墳群、等に区別されている。

  青 古 墳 群
 15基あったようであるが、宅地開発の為、ほとんど破壊された。現在、第3、第4、第5号墳が広島市指定史蹟として残っている。
 第3号墳は直径8・5m、高さ2mの円墳で無袖の横穴式石室を主体に、天井石2枚残っている。封土もわずかに残る程度である。石室は奥行3・7m、巾約1・5m、高さ1・4mある。
 石室内は一面に敷石が敷かれ、閉塞装置も残っており、ここからは鉄刀・鉄鏃・須恵器・土師器等が出土した。
   第4号墳
 前記3号墳の東10mのところにあり、直径9・1m、高さ2mの円墳であり、奥行約6m、巾1・45m、高さ1・75mの無袖の横穴式石室が残っており、須恵器・鉄鏃等が出土した。
   第5号墳
 4号墳の東約15mの所にあり、直径3・5m、高さ1・5mの円墳で、奥行1・5m、巾0・5m、高さ1mの石室と、小さな須恵器を出土した。
 以上、3基の中、第3号墳が最も古く、その築造法、出土品等から6世紀の終り頃の築造とみられ、第4号墳は7世紀の中葉に造られたと推定されている。
  給人原古墳群
給人原古墳の石室 可部古墳群の中、最も西側にあり、狭い土地に14基が群集している。破損が著しいが、いずれも横穴式石室をもつ円墳とみられている。
 その内、第1号墳が最も大きく直径18m、高さ2・5mである。
又、第9号墳では石室の石を補強の為裏込遺構が検出されている。
 これらの出土品としては、須恵器、土師器、玉類、鉄器(馬具)等が出土している。
  原迫古墳群
 福王寺参道の西側に、13程確認されている。
 調査が進んでいないが、第1号墳と第11号墳については発掘されている。
 第1号墳は、墳丘が最も明瞭で直径13・6m、高さ2・9mの円墳である。奥行8・6m、高さ1・8m、巾1・6mの横穴式石室がある。
 遺物としては須恵器、金環、玉類、鉄器等が出土した。

 これら古墳は、前記の如く6世紀の中葉から7世紀の初頭ないし中葉にかけて、当時の豪族を葬ったものと思われが、その規模、副葬品(特に馬具)等から分析すると家父長、家族の家長とその嫡系親族を葬ったと思われるものと、傍系家族とみられるものとに区別されること(このことは後の郷戸の問題や古代家族のあり方等大きい問題がある)や又、この時代に一挙に集中して築造された裏には、この可部地方が可耕地として大規模に開発されるようになったものか、大和朝廷等、国家権力による計画的開発があったものか等々、幾多の疑問点をもっている。 
 
3. 福 王 寺
   大字綾ケ谷、福王寺山にある山上がらんである真言宗の名刹。天長5年(828)僧空海が開基せるものとして、古福王寺本堂来勢力を有す。
 興亡をくり返したことも、江戸時代最盛期には五重の塔を有し、山上12坊、山下に36坊の末寺があったというから推察できる。
 寺内に各種の重要文化財を保蔵している。
  木像不動明王立像一軀、付宝剣 (県指定有形文化財)
 本堂の厨子に安置されている本堂の不動明王像は、両ひじから手先までヒノキの共木から作り出し、両足の下は自然の根となっている立木仏である。
 右手に大きな剣をにぎり、左手には絹索をもち、火炎の光背を負うた姿はいかにも勇渾で荒々しい。
 自然木を刻んだ関係か、姿にぎこちないところはあるが、ともかく大きく、立木仏の面目を伝える代表的作例で、山上の霊木に仏像をほりつける信仰が行なわれた藤原ないし鎌倉時代ごろの作と考えられる。
 なお右手の宝剣には、「宝磨十二年(一七六二)播磨守輝広」の銘がある。像高308㌢、胸高直径180㌢以上。
  金銅五鈷杵一口 (県指定有形文化財)
金銅五鈷杵 五鈷杵は密教法具の金剛杵の一種で、煩悩を破砕する菩提心の象徴として密儀(密教の儀式)に用いられたが、本来は古代インドの武器である。
 金剛杵には、両端がおのおの一本で先が分かれていない独鈷杵、三つ又になった三鈷杵、5つに分かれている五鈷杵がある。
 これは金銅製(銅地に鍍金を施したもの)で長さ23・5㌢の大きく量感のあるすぐれた作である。
  灯明杉 (広島市指定天然記念物)
 福王寺本堂前に並んでいる、灯明杉5株のうち、本堂側からみて右側2株、火災や落雷によって損傷をうけているものの樹勢は旺盛である。
 樹令はいずれも数百年に及んでいるものと考えられるが、口伝によると、明徳3年(1393)中興の祖といわれる良海住職が本堂再建の折植えたという。
 本堂前にそびえ立つ様は圧感である。
 なお、灯明杉の名称については明らかでないが、江戸時代の地誌である芸藩通志には、すでにこの名が記されている。
  さざれ石 (旧・可部町当時有形文化財に指定)
 寺宝として珍蔵されている名石、高さ36㌢、横幅34㌢の自然石。色ははがねの如く、つやのある薄灰色の白い色、諸所に薄藍色の班点がある。また山あり、谷ありという形の美しさ、陰影をもつ珍しい石である。
 紀州千里浜(現在和歌山県白浜温泉西北の海)より出でたものと伝えられる。「伊勢物語」に出てくる石はこの名と伝えている。
 これらそれぞれ重要文化財に指定されたものは、弘法大師、その他各地の武将や、庶民信仰と結びつけて数十種類に及ぶ伝説をもっていることも特徴である。  

4. 名 勝 ・ 故 木 
    柳瀬
 太田川の清流に沿い、白砂青松、閑静にして清澄、林間を吹く風の甘美なること比類なし。藩政時代は藩主を始め藩の重役・文人墨客の来往しばしばなりきと云う。林間にキャンプを張り、清流の水で米をとぎ、生きのよい鮎に舌づつみをうつ醍醐味は格別。 
  滑ガ滝
 綾ケ谷にあり。左右に厳聳え立ち、谷底全面に1枚石にて敷き、その上を水が流れる。長さおよそ220m、岩石に激しく突き当り、霧の如く砕け散り奇観を呈す。西行が詠みし歌と伝えるものに
 「山の上に水や氷を語るらん 浪の綾なり滝の白糸」とある。
  大野神社のタブ
 大野神社の本殿と拝殿の間にある。根廻り周囲6・57m、胸高周囲4・5m、樹高は推定10数m、樹勢も盛んで、この種では県下屈指の巨木である。材質はやや硬く、多少楠の材に似ている。
  大野神社の大欅
 大字勝木・大野にあり。周囲5・15m、高さ27m、樹令500年以上という。又同社境内に周囲4・85m、高さ22mの無名樹あり、樹令これ又500年という。
  今井田の大杉
 今井田神社の境内にあった。周囲4・85m、高さ29m、樹令500年。現在は株のみ残っている。
  玉縄神社の大桧
 大字勝木・字行森玉縄神社の境内にあり、周囲3・40m、高さ22m、樹令250年。現在は株のみ残っている。
  両延神社の大松
 大字大毛寺白石山両延神社境内にあり、周囲3・40m、高さ25m、樹令290年。 

  亀山地域のあゆみは、次の文献に基づいて取りまとめました。
資 料 名 明治7年創立 そして百年
開学百周年記念誌 かめやま
発 行 者 小学校開学百周年記念事業実行委員会 
発行年月 昭和52年3月
 

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