亀山地域のあゆみ

第1節 古代から中世へ 第2節 近  世 第3節  亀山の発展と太田川
第4節 交通・運輸 第5節 明治から現代へ 第6節 産  業
第7節 村方騒動 第8節 地域社会の変ぼう  第9節 年中行事
第10節 文化財    
(このあゆみは、昭和52年(1977))に発行された文献に基づいて取りまとめています)


第7節 村 方 騒 動

1. 大毛寺の村方騒動 2. 勝木村の村方騒動   
3. 武一騒動記      (1)その発端   (2)山県郡の騒動  (3)広島にも波及 
             (4)騒動の時の亀山  (5)勝木村の百姓も参加 

1.大毛寺の村方騒動
 天保8年(1837)大毛寺村の庄屋吉平の、村方算用について不正がある、という疑念を抱いた村方百姓が、郡役所へ「箱訴」した事件である。
 訴えによって郡役所は、翌9年にその事実の有無を取り調べ、又同10年にも再調査をしている。その結果、村の諸帳面の記録が複雑でわかりにくいこと、また、天保7、8年の凶作に際して、困窮者に貸し与えた「拝借」の返済をめぐって、村内での割り方に問題のあることが、役人より指摘され、これが是正を命ぜられ、以後は庄屋のみでなく村役人の間で十分相談しあい、仲よくするようにとの注意が与えられている。(可部町史)

2.勝木村の村方騒動
   天保14年(1843)には、同村の長百姓8人と小百姓3人によって、組頭庄六の不正の事実を割庄屋に対して提出している。
 これによると、組頭庄六とその息子である貞兵衛の悪事の数々を箇条書で提出している。
 願出た者が、同村のいわば輩下に当る長百姓や小百姓が11人も名を連ねている点、典型的な村方騒動とみることができよう。
  庄六父子は、(1)村の社倉麦を寛政5年には自分の商売に用い、又追加銀を着服した。(2)文化5年の洪水の被害に対する藩からの「慈悲夫賃」を自分の年貢未払分に流用した。(3)村から差出した御用銀、寸志銀に対する藩からの返却銀を着服。(4)貞兵衛兄弟2人の年貢米1俵に付1升づつの不足米がある。(5)年貢に対する歩米(割り増し)を納めていない。(6)庄六が買得した田地について不足があること。(7)村地の年貢が納入されていない。(8)御貯籾の挽き方に不当なものがある。(9)あげ百姓の土地を不当に安く買い取り、これを他に高く売りつけた。(10)年貢の取立が人によって差をつけていて公平にしていない。以上の10項目をあげている。
 この訴えに対して息子の貞兵衛(庄六はすでに死去)は一々不正はない旨を反論している。これに対しさらに「百姓中」は(1)(3)(4)(5)について不正を訴えている。
 この結果は不明であるが、村役人の村落運営と彼等の経済活動に対して、細かく目を向けていることがわかる。(重川家文書)

3.武一騒動記 
  (1) その発端
  明治維新は名の如く、百事一新の機会であった。相次いで布告される諸制度、諸法令は運用を指導する側(官)にとっても、住民にとっても、十分に消化し、即応することは容易なことではなかった。そうした中にあって、最も大きかったものは、明治4年(1871)7月の「廃藩置県」の詔書の発布であった。
 これによって広島藩は「広島県」となり、従来の藩知事(浅野長勲)はその任務を解かれ、東京へ永住することとなった。
 しかし未だ旧藩治体制から、新「県治体制」に切り換えられない時期に、前藩主浅野長勲一家の東京への出発、の情報は人びとに大きな衝撃を与えた。
 明治4年8月4日、前藩主一行は東京移住のため海船に乗るべく竹の丸の屋敷を出発しようとした。かねて上京阻止のため山県郡その他から広島に出ていた数千名の農民によって、道が塞がれて出発は不能となった。「おとめ申す、おとめ申す。」という声は沿道にみなぎった、という。
 そのため出発は延期となり、当局では出広した農民の帰村を説得したため、一部は帰村したものの大部分はこれを聞き入れず、かえって郡部から広島へ入り込む人数は増加した。
 一行は翌5日も竹の丸の屋敷前にすわりこんで動こうとしなかった。7日には長勲の説論書を携えて、各郡に説論使が入りこんだ。
 高田・高宮両郡へは掘少属、村上権少属、松尾権少属が来て、割庄屋、庄屋を集めて農民たちを押えようと試みたが、事態は好転せず説論使は引き上げた。
 広島でのすわり込みは、やがて郡部へも波及した。
 事態は急速に悪化し、藩主の江戸への出発引き止め運動は一転して、新政府反対の方向に変化し、郷村の支配層に対する攻撃が急速に転換していった。
 これがいわゆる「武一騒動」といわれる騒動の発端である。

(2) 山県郡の騒動
 説論のため説論書を携えて山県郡に入った説論使権大属栗原他人三郎、竹内丈太郎、木原章六らは随身の小者3人を連れて、8月7日壬生村に入り、そこで近村5、6ヵ村の農民を集めて、説論書を読み聞かせようとした。
 この時にわかに大鐘や太鼓を打ち鳴らし、多人数が説論使を取り巻き、竹槍、鎌、鍬などをもって脅迫し、家内に押し入り、乱暴に及んだため、一行はようやく逃れて高田郡に入り帰広した。しかし途中、竹内権少属は猛り狂った百姓の竹槍によって重傷を負った。
 この暴動をきっかけに騒ぎはさらに新庄・大朝に飛び火し、12日には有間、寺原、本地、南方、さらに西部地域の中心地加計村に波及し、山県地方全域に及んだ。

(3) 広島にも波及
 広島に出ていた百姓たちは多く寺町の真宗寺院に投宿していたが、山県郡の暴動が口火となって、12日正午頃から打ちこわしが始まった。
 新政府の要職にあった船越洋之助の実家をはじめ、新政府の官員の家、新興の豪商、酒屋など46戸が襲撃をうけた。
 尋常の手段をもっては、到底鎮圧することの不可能なことを知った県当局は、遂に兵力をもって鎮圧することを決定し、次のような掲示を各所に出して警告した。
 「百姓}ども多人数集り、さわがしきに付御三方様御出張御説論の趣も相わきまへず不埒之至二候。不得止兵隊を以鎮撫致候間、一統説論相わきまへ候もの共は、すみやかに帰住可致事」
 こうして実力行動にふみ切った当局は、市内の南門の上に大砲1門をすえ、要所要所へは各1コ小隊づつ7ヵ所に配備し、13日朝から空砲を発射して部隊の進撃をはじめた。
 このため各所で竹槍、などの凶器で武装した農民と衝突し、双方に多数の死傷者を出したが、遂に一揆の群集は追い払われた。こうして広島では一応平静を取りもどしたが、これに参加した農民はやがて帰村の途中、各地の庄屋をはじめ富豪の家を襲い、打ちこわしを行ない、又帰村してからもそれぞれ地元で騒動をつづけた。
 こうして14日には三次郡で20戸、15日には恵蘇郡で39戸と全県的にひろがり、23日頃までに173戸が打ちこわしの被害を受けている。
 隣郡高田郡へは18日に兵隊400人が進駐し待機する一方、各村々へ県から説論使を派遣して鎮撫につとめた。

(4) 騒動の時の亀山
 武一騒動に際して奥地、特に山県郡の百姓たちは大挙して広島へ出ているが、この模様を山県郡の割庄屋山本五郎左衛門が記した「郡中百姓騒動に付筆記」(県史・近代資料編1)武一騒動鎮撫のふれ書によってみると、
 8月12日山県郡西部奥地の百姓およそ80人余りは、その夜吉木村宇都宮神社境内に半数・都志見原之小家に半数分宿。
 翌13日早朝吉木村出立、今吉田堂原にて貫食し、弁当を用意し、それより高宮郡飯室村山手という所で酒を飲み、上行森から恵坂峠を経て大毛寺村に入った。
 大毛寺村では信元という所で食事をとり、そこから広島へ出ようとした。ところがすでに広島城下は、数万人の群衆が入り込み御屋敷や町家を折りめぎ、飛道具をもって打ち払い、広島の四辺には数百挺の鉄砲でかためてある為仲々入込難し、という情報であった。
 このため一行は河戸清隆寺(誓立寺?)へ立ち寄り、そこで話し合い、結局総代一人づつと、各庄屋が居残り、御西殿様そのまま広島に居住されたき旨の歎願書を持参出広することとし、他の者は直ちに住居地へ引返し、又一部は同寺に一泊 翌朝引き返した。

 五郎左衛門は一行とともに行動したものと思われるが、その留守中彼の自宅は他の暴徒によって放火され、土蔵3棟を残してすべて焼失した。

(5) 勝木村の百姓も参加
 明治4年8月4日、前藩主浅野長勲一行東京永住のため広島出発となるや、勝木村の百姓竹坂磯右衛門は百姓総代として、出発を引き止める嘆願書を提出した。
 8月12日になると郡部の百姓たちは、誘い合わせてぞくぞくと広島市内に入った。勝木村でも表勝木、行森、川筋から大勢が参加した。
 この時、可部の渡し場にて待ち合わせ、集結して整然と共同行動をとることになっていたところ、行森、表勝木の一行は一足早く渡し場へ到着した。
 一行はここで最初の打ち合わせどおり、後者の者を待つべきであった。ところが群衆の中に出広を急ぐ者があって”待て--待て”という穏健派が押し切られた形になって、渡し場の船頭へ「先に発った」と告げるよう頼み置いて出発した。
 一行は最初、矢倉の下桑原屋へ投宿することになっていたが、”差図によい”ということから、中島本町囚方へ宿を変更した。
 当日夜中頃に後からようやく到着した大野、中河内、姫瀬方面の百姓一行は、直ちに囚方を訪ね”可部の渡し場で待ち合わす約束を破った理由をなじり”、役方の返答をせまった。役方は、”何分多人数の事とて、押されてやむを得ず出発した”旨を答えた。しかし後着の一行は納得せず、囚に宿を予約してあったにもかかわらず、投宿せず、寺町報専坊へ投宿した。
 こうして共同行動についての不統一もあった上、きびしい当局の達しがあって、翌13日早朝に川手組ははやばやと帰村した。つづいて行森、表勝木組も帰村した。

 13日夜になると、川手組の百姓およそ80人が突如大挙して庄屋遠坂伝三郎方下手へ鉄砲、竹槍、鎌、鎚などを携えて終結し、大火をたき始めた。
 一行の中から代表として弁蔵、彦六、藤吉、九平二等が代表として庄屋伝三郎に対面し
 「昨日出広の際、可部渡し場にて待ち合わせる約束を破った理由。太政官役をやめるか、或は引き続きやる気か、返答されたい。これに対する返答次第では考え振りがある」と。
 これに対して庄屋伝三郎、組頭半六、同徳太郎ら村役たちは
 「太政官役は別に掌らず、藩知事様よりいただいたものである。しかし百姓中より、太政官役と申し、考え振りがあるということであれば、望みどおりに致したい。
 なお、可部渡しにて待ち合わせ出来なかったのは、何分多人数で評議が多く、さあさあの声に押し立てられて、不本意のまま船頭へ頼み置いて出発したもので他意はなく、又あの場合やむを得なかった。」と答え、”とも角この場はしずまってほしい”と説得した。
 役下げの事もあえてこだわるものではない。という意思表示によって、一同は引き上げた。
 8月18日、村内の状静は次第に平穏に向い、激昂した百姓たちの村役人に対する不信もやわらぎ、さきの13日夜、庄屋方で認めた「役下げ」の書類を百姓より帰してきたため、すべて平静にもどった。
 13日夜、庄屋伝三郎方でしたため、村方百姓へ書き渡した一札は次の通りである。
 「一、当度一同罷出候義村方人別一統太政官付之義者決而不仕申定メ為其一札如件」
         未     八月十三日      村役人
                             長百姓
      惣百姓中

 この騒動の結果、官員その他各地の破壊、焼き打ちにかかったものはおびただしい数にのぼる。
 記録によると暴動側の死者25名、傷者6人(広島県警察百年史)と村役から百姓へ書き渡した一札されている。この人員の中で亀山周辺のものを挙げると、大毛寺村の久次郎、下中野村の卯助が死に、同村の仁兵衛が重傷を負い後に死に、上原村の芳兵、中島村庄平が重傷を負った。
 このように、近代初期の大騒動に発展した「武一騒動」は、旧藩主との惜別の情から次第に新体制への反発、新体制の中の指導者(その多くは藩政時代から引き続き就任した者)層に対する怨みとなって発展した。武一騒動は事件後、首謀者として処刑された山県郡の武一の名を冠して付けられたものである。
 この騒動について、高宮郡は他郡に比して平静であったようであるが、部分的には参加者の中から前記の被害者が出ている。
 武一騒動によって、割庄屋、庄屋の支配者の組織は完ぷなきまでに打ちくだかれた。
 この騒動は、旧藩主に対する忠誠心の現われとか、新政府に対する無知な農民の暴挙であったとするものがあるが、その根底に根強く満ちていたものは、二百数十年に及ぶ領主支配に対する反抗であり、旧来の制度を改めようとする世直しの大衆運動であった、とみるべきであろう。

  亀山地域のあゆみは、次の文献に基づいて取りまとめました。
資 料 名 明治7年創立 そして百年
開学百周年記念誌 かめやま
発 行 者 小学校開学百周年記念事業実行委員会 
発行年月 昭和52年3月
 

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