亀山の歴史

年代 出  来  事
紀元前
667年
神武天皇(日本の初代天皇)が、九州から大和へ東征の途中、安芸の国・埃宮(えのみや)に立ち寄られた。
 往古、瀬戸の海は可部盆地辺りまで入り込んでいたといわれる。そのため亀山地域の太田川周辺には、神武天皇にまつわる地名が数多く伝えられている。
 神武天皇は、帆待川をさかのぼり、舟山のふもとに舟を繋ぎ、舟山に登られたという伝承がある。舟山は天皇みずから舟をつながれた由緒ある山のため、「貴船山(きふねやま)」と呼ばれたが、いつの頃からか貴の字がとれて、船山になったいわれる。
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6世紀後半〜7世紀
福王寺南麓一帯の6つの可部古墳群のうち、亀山地域に給人原古墳群・青古墳群・原迫古墳群が確認されている。
 これらの古墳群は、6世紀後半から7世紀に造られたもので、水稲耕作に欠かせない条件を備えた「可部盆地」には、当時この地方に多くの人びとが生活し、それらを統括する強力な支配者がいたことが証明される。
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天長5年(828)
福王寺が、鎌倉時代初期の天長5年に、弘法大師(空海)により開基された。

 弘法大師が、不動明王像を彫って本尊として開いたとき、池に金の亀が浮き出て、大師に向って 三拝の礼をもって迎えたことから、この寺を「金亀山福王寺」と名づけたとある。
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建長5年
(1253)
両延神社は、建久元年(1190)宇佐八幡宮の分社を下四日市村岡崎に勧請し、建長5年にその八幡宮を現在地に奉還したのが始まりといわれている。
 八幡宮は源氏の守護神として尊崇されていく中で、両延神社も安芸の国の守護 武田氏代々の信仰厚く、その庇護を受けて社運隆盛であった。
 江戸時代に、両延神社境内から弥生期の平型銅剣が出土したと伝えられ、この地方が早くより開け、古代人の生活基盤があったものと推定される。
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天正17年
(1589)
毛利輝元が広島城の建城に着手する。
 城下町構成に太田川が果した役割りは大きく、以来、江戸時代から明治・大正・昭和初期に至る時代は交通、運輸の面で脚光を浴びた時代であった。
 毛利氏が広島を拠点とするまでの太田川の水運は、おおむね可部・四日市までが上限であったが、可部から上流へ向けて通船が伸びていくのは、江戸時代初期の頃からといわれる。
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慶長6年
(1601)
大毛寺・上四日市・下四日市・勝木・綾ケ谷の5カ村ができる。
 福島正則は、徳川幕府の方針に従って、徹底した行政改革を実施し、行政の基本となる検地・土地と農民の結合・士農工商の身分制度を確立した。
こうしてできたのが、江戸時代の村である。
 のち、寛永5年(1628)の地詰の際、下四日市村の枝郷であった柳瀬と今井田が四日市村から分離、今井田柳瀬村を設置した。
寛永7年
(1630)
将軍家光の頃、広島藩から将軍家へ献上する鮎について、その数を各郡に割り当てている。
 江戸時代に、各藩は参勤交代で江戸詰めの時、各藩の特産品を献上したが、太田川で捕れた鮎と河戸の干し柿は、江戸幕府への広島藩からの献上品として有名であった。
 広島藩の献上鮎は、四日市(現河戸)沖の太田川に「官営やな」を設け、藩役人を常駐させて、捕獲・調製・荷造りなどを管理指導させた。
宝暦4年
(1754)頃
中国地方三大牛市の一つ可部の牛市は、舟山で牛馬の交換会をもったのが最初といわれる。
 その後、地理的条件のよい上市に場所が移されたが、可部の牛市は、背後に牛の産地を控えていることと、交通の便が良いことから、買い手は近畿・四国・九州から集まって活況を呈し、可部の商業経済を支える重要な役割りを果たしていた。
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明治7年
(1874)
亀山小学校創立
明治13年
(1880)
交通を完全に遮断していた飯室・勝木間の「幕の内峠」に、延長4キロ・道幅4.5mと、当時としては驚くほど大きな幕の内道路が完成した。
 しかしながら、大正・昭和・戦後と交通戦争を生むに従い、車輌の大型化と60曲りというカーブの連続に、運転手泣かせの道路に変化していった。
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明治20年
(1887)
初代の太田川橋が完成した。
 現在の太田川には多くの橋が架けられているが、これらの橋のない時代は多くの渡し舟が運行していた。太田川橋から上流に向かって順に、八木渡し・増田の渡し・筒瀬渡し・大野渡し・中河内渡し・姫瀬渡しがあった。
明治22年
(1889)
大毛寺・四日市・今井田・勝木・綾ケ谷の5力村が合併して「亀山村」が誕生した。
 村の中央に位置する福王寺山は、頂上に弘法大師の伝説を秘めた金亀池があるところから、古来「金亀山」の別名をもつ信仰の山であった。
歴史的背景を拠り所にして、由緒ある金亀山の金を外して「亀山」と決定した。
 また、「鶴は千年、亀は万年」という諺のように、古来亀は長生きを表現する縁起よき名として庶民にうけていることもあって、村名決定には何等の異議もなく極めてスムーズに決定した伝えられている。
明治45年
(1912)
太田川本流最初の水力発電所となる、亀山発電所が完成した。
 この発電所の完成により、亀山を中心とする可部地方が、最も早く「あかり革命」の恩恵に浴することができ、ランプから急速に電灯化するとともに、産業の機械化・工業化をうながし、年とともに需要が増大していった。
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昭和8年
(1933)
可部〜飯室間の鉄道が開通し、戦争で一時中断したが、昭和29年(1954)に加計まで、昭和44年(1969)に三段峡までの鉄道が開通した。(横川〜可部間は明治44年開通)
 三段峡まで開通した時には、社会情勢が大きく変わり、車やバスの発達により、鉄道乗車人口が減少して赤字経営を余儀されるに至り、可部〜三段峡間が平成15年(2003)廃止された。
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昭和20年
(1945)
広島に原爆が投下された2時間後、3個の落下傘が福王寺山南麓、勝木の中腹、報恩寺近くに落ちた。
 落下傘には人間の胴体くらいの物体を吊っており、時限爆弾かもしれないと、緊急避難サイレンが鳴り、防衛隊が物体の警備・監視に当ると共に、住民は思い思いに走って避難した。
 この物体は、アメリカ空軍が原爆の投下にあたり、爆発の状況を無線で自動的に基地に通報する、落下傘付き無電装置であった。
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昭和28年
(1953)
幕の内峠で、70人の乗客を乗せた「バス転落事故」が発生し、死者10名・重傷者38名・軽傷者21名の大惨事が起きた。
 急カーブに差しかかった際に40m下に転落したもので、その被害の大きさ、その惨状の凄まじさにおいて、安佐郡内最大の交通事故として報道された。
昭和29年
(1954)
長さ420m、幅7.5mの幕の内トンネルが開通した。
 幕の内道路が、時代の流れとともに交通上の難所として悪評を得るようになったため、昭和26年に「幕の内トンネル期成同盟会」が組織され、昭和29年に1年5カ月の短日月で、幕の内トンネルは開通し、芸南・芸北問の障害は完全に除去された。
 さらに平成12年、上り線・下り線と別々のトンネルを通す4車線化が完成した。
昭和30年
(1955)
可部町・亀山村・三入村・大林村の4カ町村が合併して可部町となる。
 可部町(大字大毛寺・大字四日市・大字今井田・大字勝木・大字綾ケ谷)となって「亀山」の地名が消え、「亀山地区・亀山地域」などの地域呼称や、地域団体・施設などの名称で、わずかにその名残りをとどめてきた。
昭和46年
(1971)
虹山団地完成
 この団地の区域を大字大毛寺から分離して大字「虹山」を設定し、可部町(大字大毛寺・大字四日市・大字今井田・大字勝木・大字綾ケ谷・大字虹山)となる。
昭和47年
(1972)
可部町が広島市と合併する。
昭和48年
(1973)
広島市指定天然記念物に「福王寺燈明杉」が、広島市指定史跡に「青古墳群」が指定される。
昭和49年
(1974)
亀山南小学校創立(亀山小学校から分離)、亀山中学校創立
昭和52年
(1977)
亀山公民館開館
 「亀山公民館だより」第1号発行
昭和55年
(1980)
広島市が政令指定都市となる。
昭和61年
(1986)
市街化された地域に新住居表示が実施され、従来の大字の区域はかなり変更された。
 亀山(1〜9丁目)、亀山南(1〜5丁目)の2町名が新設され、「亀山」の地名が復活した。

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